♪♪ NATの独り言 (心・ジャズ)

生きていく上で信じてること。大好きなジャズのこと等

2011年07月

太陽光発電だって環境を変えるでしょ!

 菅首相が、突然「脱原発」宣言をして国民を驚かせた。と思うと翌日にはそれを全くの個人的見解だと言い出し、二度驚かせた。
 

 原発の安全性問題が露わになった今、日本の電力の50%を原発で賄うという従来の目標は見直しとなり、少なくとも「縮原発」になるのは、国民も、各政党も皆同じく感じていることだろう。しかし、今後、原発を本当にどうするかは、次のような多くの関連する問題を含んだ複雑な方程式を解いていって始めて答えにたどり着くということだろう:
原発の代わりに結局石油火力等が増えると電力コストがどれくらい高くなるか?
それで日本の産業は持つのか?
資源のない日本として石油の供給が途絶えたらどうするか?
温暖化問題への取組みとの関係はどうするのか?
原発に依存する過疎の地方経済の問題をどうするのか?
原発輸出産業との関係はどうするのか?
代わりに不安定な太陽・風力を増やす場合、電力供給の安定性はどうするのか?
同様にその場合、周波数安定度(精密モーター等に重要) が落ちるが、どうする?
現在の熱中性子炉は縮小でも、トリウムサイクルとか核融合などはやるのか? 

 原発をどうする?という問いが、このように複雑な諸要素を全て勘案しながら、中長期の時間軸の中で解決すべき問題であることを、多くの国民も直感的には知っているはずだ。それを、菅首相が、自分が「脱原発」と叫ぶと国民が一気に自分をサポートするだろうという風に国民を愚弄した思いで無責任発言をするのは、本当にA級戦犯・国賊モノである。
 

 また、原発は完全な「悪」と切り捨て、一方で太陽と風力は完全な「善」というような、単純二元法で、エネルギー問題を論じることにも落とし穴があろう。太陽光発電の問題としてまずその高コストや不安定さが指摘される。更に人によっては、太陽光発電セルを製造する過程で投入する大量のエネルギー問題を指摘し、それを太陽光発電で回収するのに1.5-2年かかるという議論もする。しかし、実は原子力発電を置き換えるほどの超大規模太陽光発電を至るところに設置すると環境・気象への影響があり得るのである。これは私が大昔に新技術の仕事をしていた時から言ってきたことだ。
 

 地球に降り注ぐ太陽光の30%は大気・雲・地表に反射されて宇宙に戻る。大気で6%、雲で20%、地表で4%だ。ところが、地表に広大な太陽光パネル(黒い板)を置くと、黒いパネルに太陽光の殆どが吸い取られ反射がなくなる。つまり、地面を無駄に熱するだけであった太陽光を電力に変えて有効利用するだけなのならいいのだが、実はこれまでは4%分、宇宙に戻していたエネルギーを地球に留めてしまうという副作用があるのだ。今30%の反射率(アルベド;albedo)が地球全体で1%減るだけで、地球の温度が1度上昇するとも言う。つまり大規模太陽光発電は、地球の温暖化を相当促進するのである。また、太陽光の中で大量にある紫外線は植物などに当ると化学エネルギーに変わるが、それが替りに太陽光パネルに当ると電気になり、更に結局回り回って熱になってしまう。これも温暖化促進要因になる。これがどの程度の問題になるか、ちょっと分らないが、そういうこともあるということだ。
 

このように、太陽光発電(太陽熱発電でも)というと「自然でクリーン」で(コストが高いのと不安定な以外)全ていいところばかり・・・と思いがちだが、大規模にすると地球環境への歪みを生じることもあるということだ。人類がエネルギーを大量消費する文化を持った時から、何をしても地球への負荷はあるのだ。そういう目で総合的にこの問題を見なければならない。

 だから、特定のエネルギー形態を好きとか嫌いだという政治的思惑からではなく、
冷静な施策として、原子力、化石燃料、太陽、風、そして前にこのブログで書いた環境適合型の地熱などを、時間軸の中で適正ミックスするエネルギー政索を練り上げて欲しい。私は強くそう思う。  Nat




神さまと相撲をとったヤコブ

 前回、旧約聖書の創世記から「ノアの箱船」の話について書いた。ついでに、同じ創世記に出てくるヤコブというイスラエル民族の始祖の一人の話を書こう。(創世記32:22-32。)
 

 ヤコブは、イスラエルの始祖中の始祖のアブラハムの孫。お父さんのイサクと双子のお兄さんであるエサウを騙して、家の全財産を横取りしたのがヤコブだ。そしてエサウの元から逃れ20年間、おじさんのラバンの所に身を寄せていた。そしておじさんラバンとヤコブは様々な騙し合いをするのだが、結局、ヤコブはラバンの娘2人を嫁にし、ラバンの羊やヤギという財産も上手く自分のものにして逃亡する。家族・親戚すらも騙すという策略で世渡りをし、財産と家族を形づくってきた男、それがヤコブだ。そんなヤコブに危機が訪れる。それは、ヤコブがむかし騙した兄エサウが、大勢の者と共にヤコブの所に押し寄せてくるという知らせが入ったのだ。兄との戦いに負けると、これまで築き上げた財産も家族も皆奪われてしまいかねない。まさに人生最大のピンチであった。
 

 ここでヤコブが何をしたかというのが、聖書の話だ。ヤコブは家族たちを先に川を渡らせて、川のこちら側に一人残っていた。その彼に突然誰かが相撲を挑みかかったと書いてある。そして2人は一晩中、取っ組み合いをした。その相手は粘るヤコブに根負けし、ヤコブの腿に関節技をかけて関節を外した。ヤコブは、その相手がどうも神様か、神様の使いであることを悟り、いよいよ食い下がり言う。「私を祝福してくれるまで放しません。」それで、神(か、神の使い)はヤコブに「イスラエル(神と戦い勝った人)」という新しい名前を与え、彼を祝福する。神の祝福・守りを得たヤコブは兄エサウに会うが、エサウはヤコブを攻めるどころか、ヤコブを抱きしめてくれたのである。こうやってヤコブは救われたという話だ。
  

 この話は、人間が神と相撲をとり、しかも神が根負けするという話で、非常にユニークである。人生最大のピンチの中でヤコブは実際何をしたのか。まず一人になって必死に神に祈ったのであろう。それも神の胸倉を掴みかかるように食い下がって祈ったと思われる。創世記の「神との相撲」物語はそういう趣旨であろう。ここで、ヤコブの祈りの中身を想像してみると面白い。まさかヤコブが「私はずっと正しい人間として神に仕えてきました。だから私を守って下さい。」などと言えたはずがない。恐らくヤコブが言ったことは「神さま。ご存知のとおり、私は父も兄も騙し、おじも騙して財産も家族も作り上げたきた人間です。そんな私ですが、今最大のピンチです。兄と戦って負けたら、全財産も、あるいは下手すると命も失います。神さまお願いです。私の味方をしてください。味方してくれるまで貴方を放しませんからね。」人類史上、最高に身勝手な祈りだったかも知れない。しかし、同時に、一晩中神と格闘して祈ったのだから、人類史上最も篤く執拗な祈りであったにも違いない。
 

 聖書のメッセージはこうだ。神は、人間が、身勝手でも、篤く執拗に自分に向き合って祈る時、決してそれを撥ねのけたりしない。むしろ、人間がそのようにしてまで自分に向ってくるのを愛されるのである。そして、神がそのような祈りを聞きとげるのは、祈る者の正しさの故ではない。ただただ、祈る人間のひたむきさを愛されるが故である。このメッセージは現代の我々をもおおいに生かすものだ。神の前には誰も「正しき者」として立てない。しかし、神が「駄々をこねる小さい子のようでもいい。あなたの心を全て私にぶつけなさい。」と言っていて下さることを信じていいのだ。そう信じて祈りながら生きる。そんな生き方に、あなたも招かれているのですよ、というのが聖書のメッセージなのである。

      Nat

 





大津波と、ノアの箱舟の話

 私の行っている教会の“子ども中心の礼拝”(ジュニア・チャーチ)で今月前半は、有名な「ノアの箱舟」の聖書箇所(創世記)を採り上げる。ご存知の方が多いだろうが、この世に邪悪な人間がはびこりすぎたのを見た神は、正しき人ノアに大きな箱舟を作らせる。そして箱舟が完成した時、神は大雨・大洪水を起こして地上の人間や生き物を滅ぼす。箱船の中にいたノアの家族と動物たちだけを生かして、この世の命を作り直したというお話しだ。
 

 太古の昔の人類は、度々大洪水が発生し、多くの命を奪うのを体験する一方、洪水が引いた後、生き残った人類と動植物でそこから“やり直し”となり、再び発展していったということが繰り返されたのを経験してきたに違いない。そんな中で、旧約聖書の創世記を書いた記者たちは、大洪水による地上の一掃を「神による“お掃除”、クリーンアップ」と解釈したようだ。人類が繁殖すると、常に悪い奴らがはびこるので、神さまのお掃除が始まるというわけだ。これは、興味深い解釈ではある。しかし、実際のこの世の天変地異を見ていると、滅ぼされるのは毎回悪い奴らで、生き残るのが必ず「神の前に正しい人」というようなキレイな展開にはならないのである。 

 先日、我々は東日本大震災で大津波が東北地方を襲ったのを見た。大船渡市や石巻市等など、地上から家屋や人間が一掃されてしまった多くの地域がある。それらを見て、滅ぼされた人は「悪しき人間」、助かった人は「神に選ばれた良き人間」などと、思える人は誰もいないだろう。また、旧約聖書の創世記も、我々にそのような東北大津波の解釈を強いるために書かれたものではあるまい。
 

 私は、当ブログで震災直後の317~19日に3回に分けて「大地震も大津波も神さまの業?」というテーマで、天変地異と神の愛の関係につき書いた。人間はどうしても人間の基準で天変地異を解釈しようとする。そこで「神の気まぐれで何万人の人が滅ぼされるのか!」と解釈した人は、神に憤り、神に絶望する。一方、創世記記者に準じて「神の怒りの業」とか「神のお掃除」という解釈をしようとしても、罪もないように見える多くの命が「お掃除」されてしまった事実の前にその解釈は挫折する。結局、人間の基準での解釈からは何も生まれないのである。所詮人間は人間の基準から逃れられないので、天変地異そのものの背景に神の心を見ようとしても、どだい無理なのである。天変地異は天変地異のまま受けとめるしかないのである。 

 それでは、創世記のノアの箱舟のような話は私たちに何を語り掛けているのであろうか?

それは、天変地異の解釈論ではない。それは、人が神にどう向き合って生きるかの「生き方」なのである。ノアは、周りの人が皆、ノアが箱舟を建設しているのを嘲け笑う中で、愚直に神のメッセージと約束を信じて箱船を建設した。ここに一つの人間の生き方がある。また、大洪水が引いた後、生き残ったノアたちは、虹を見た。そして、神が、虹を指しながら「これから人間を二度と滅ぼさない。所詮、人は生まれた時から“悪い子”なんだから。虹はそのような私の愛の印である。」というのを聞く。ここに創世記の記者たちの人間観、神観が溢れる。天変地異で人間の理解を超えて人間が滅びる世界を創られたのも神。そして、その中で、生まれた時から“悪い子”でもある人間をこよなく愛し守って下さるのも神。だから、人は神を畏敬しつつも、神の愛が貫かれることを信じることにより生かされて生きるのである。そのような「生かされ方」「生き方」、それこそがノアの物語の核心的なメッセージである。      Nat






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