♪♪ NATの独り言 (心・ジャズ)

生きていく上で信じてること。大好きなジャズのこと等

2011年08月

A級戦犯はもう犯罪人でない?

  先日、野田財務大臣が、かねてからの彼の持論を展開し「A級戦犯はもう犯罪人ではない」と述べて物議をかもしている。これは日本の国内的心情としては結構多くの人が内心そういう気持ちをもっていることである。しかし、日本の国際政治上は、それを言うと、賠償金責任からも免除された日本の戦争責任の収拾問題が全て振り出しに戻ってしまうのである。だから、国策としてはそんなことを言わないのが正しい。
  

 戦後の東京裁判における戦犯裁判には、日本国内では不満が多い。ひとことでいうと戦勝国が敗戦国を一方的に裁いたものだからだ。A級の戦争犯罪(というかむしろ「A型」と訳すべきだが)という「平和への罪」(侵略)なる新しい戦争犯罪の型を作って事後的に遡って適用したとか、侵略なら他列強もしていたとか、米国の原爆(市民無差別殺戮)も重大なる戦争犯罪でないのか?等などのわだかまりが心に残る。そして、A級戦犯の人たちが(逃亡したナチス将校と異なり)武士のように従容として死刑を受けた、あの日本人らしい潔さが、国民の中に「あの人たちだけが悪いわけでもない」という心情も生んできている。更に、日本文化では死んで祀られるともう清められ、むしろ「護り神」になるという考えまである。その上、1952年のサンフランシスコ平和条約の締結後、服役中の戦犯の赦免や釈放もなされ、政府として正式にいわゆる「名誉回復」宣言はしていないものの、雰囲気として処刑された人も本当は赦免してあげたかったという気運になった。 

 しかしだ、国対国の国際政治においては、上記のような心情的贖罪論は論外である。そのことについては、当ブログで200510月以降数次にわたり詳述したのでご参考願いたいが、敗戦国は本来、巨額の賠償金を払う必要がある。しかし、第一世界大戦後のドイツへの賠償金責任が却って第二次世界大戦を生んだとの反省もあり、第二次世界大戦の戦後処理においては、極力敗戦国に国家としての賠償責任は負わせない方式としたのである。だから、日本は中国や韓国に経済援助の形の償いはしたが、これらの国に対しても米英に対してもご賠償金支払いはなしで済んだ。その代わりに、政府と軍部の首脳個人に戦争責任を負わせ、彼らの命で償わせたのである。即ち、日本の国民にも大きな負担となる賠償責任を免除して日本が復興に向えるようにする、その代償としてA級戦犯の人たち個人に命を差し出させたのである。(注:サンフランシスコ平和条約締結国ではないフィリピン、ベトナム、ビルマ、インドネシアの4国には賠償している。) 
 

 従って、中国や韓国からすると、A級戦犯の処刑という事実と彼らが永遠に罪を担うことこそが、日本に戦争責任を果たさせるための絶対必要条件なのである。それを今さら、野田氏のように「もう犯罪人ではない」などと言おうものなら、その絶対必要条件が崩れ去り、戦後処理に遡って賠償金を払えと等いう話に舞い戻るのである。野田氏がそれを分った上で、国内受けのために言っているなら、一部の自民党系の人や右翼系の人と同様の人物ということになる。分らないで言っているなら無能ということになる。困った人だ。まさか首相なんかにはならないでほしい。     Nat

 



 




終戦記念日? 敗戦記念日?

 今日815日は一般には「終戦記念日」と言われる。しかし、物事に主張を持つタイプの人の多くは「違う、敗戦記念日だ!」と言う。「終戦記念日」等と言って日本が戦争に負けたことをぼかしたり、忘れようとしてはならないという主張だ。ところが、いわゆる右翼的な人、左翼的な人の両方ともが同じく「敗戦記念日だ!」と主張する。石原慎太郎氏も「敗戦ですよ、レトリックでごまかしても仕方がない。」と言う。一方、私も関係しているキリスト教の教会でも「敗戦記念日と言いましょう」という人が多い。 

 右翼的、あるいは国粋的な指向性を持つ人々からすると、「敗戦したのは事実だが、その悔しさを忘れず、それをバネとして日本は強く立ち上がるのだ!」となる。あるいは、「敗戦したが、その分、一からの再出発で日本は不死鳥の如く立ち直った。今や十分お釣りが来るくらいに敗戦のダメージから復活したのだから、寧ろ誇りをもって敗戦と言おう!」ということになる。一方、左翼的な人、あるいは戦争における大量殺人の悲しさ・恐ろしさ等を注視する指向性の強い人は、「日本は愚かな戦争をし、中国・アジアで多くの人の命を奪い、自国の多くの命をも失った挙句に敗戦した。その愚かさ、悲しさを忘れない為に、敗戦と言おう!」ということになる。 

 もう少しこのことを考えてみたい。まず歴史的に、戦争終結日は何日かというと、世界的には194592日、日本が降伏文書に調印した日である。米英はその日を戦勝記念日と言い、日本でも1952年頃までは新聞でも、その日を敗戦記念日等と呼んでいたようだ。米英が戦勝した日なら、その相手をした日本は敗戦した日であることになる。それでは815日は何の日かと言うと、前日の14日に米英らにポツダム宣言受諾を通告、そのことを玉音放送で日本国民に対し公布した日である。要するに国内的に「日本は降伏し、戦争は終わりました」とアナウンスした日である。世界でもこれに合わせて815日を記念日としているのは、日本領土であった韓国・北朝鮮だけで、韓国ではこの日を光復節と呼ぶ。つまり、そもそもが815日は、戦争の相手国との関係での勝ち負け記念日ではない。国内的に戦争が終わったことを想う日である。それが815日のお盆の心情と重なり、次第に日本人戦没者を追悼する日になっていった。ということから、815日に「自分らの肉親は日本のために戦い命を散らしたが、結局日本は負けた」と言い表す心情にはならない。815日は世界の国際関係の中での終戦記念日ではなく、日本人だけの心の日なのである。かと言って92日を別途国際関係の中での敗戦記念日として、別の記念行事などをするわけでもない。 

 かくして、815日が極めて日本人的・内向的心情を表す日、お盆的な亡き霊への鎮魂の日としての「終戦の日」であるが、その他に、国際政治の中で日本が敗退したことや、日本軍が中国・アジアで幾万の命を奪ったことを省みる日は特にないのである。それがゆえに、右翼も左翼も8月15日を「敗戦記念日だ!」と主張するのである。 

 しかし私は特に敗戦記念日であるとまでは言わないようにしている。前述の通り肉親を亡くした追悼の思いに浸る人に、ムキきになって「敗戦したんですよ!」とか「あなたのお父さんは中国で多くの人を殺しましたね」とか私には言えない。そしてもう一つ、敗戦を強調することで、あの戦争の責任問題に関して私が「もう乗り越えよう」と言っている「戦後左翼・戦後インテリの典型的な偏った主張」に戻ってしまい兼ねないからだ。2007511日から20日までに当ブログで「クリスチャンと日の丸」と題して8回にわたり、そのテーマに関する私の考えを提示した。今、私を含めてクリスチャンが掲げるべきは、中国・韓国や米国と日本の間でどちらがどう加害者であった、被害者であったかという人間対人間の罪(Crime)に関する裁きや論議ではなく、日本人を含めた人類が神に対して犯してきた罪(Sin)への赦しの祈りであるからだ。だから815日は終戦記念日でもいい。その代わりに、この平和を思う月である8月には、戦争という人類の罪について若い人たちと共に考えることとしたい。      Nat

 


東京電力救済の2億円の国債交付って国民へのごまかしでは?

4月に東京電力の福島原発の損害賠償のための支援機構の案が出た時から「交付国債」なる怪しげな概念が入っていた。私としては、所詮経産省の役人が国民を誤魔化すための方策ではないかとずっと疑っていた。 

このたび原子力損害賠償支援機構法東京電力救済法)が成立した。報道を見て、やっぱり!と思ったのは、東電が交付国債方式の資金を特別利益として受けるので、債務超過にはならないという発表だ。この報道を聞いて「なんだ、結局、税金から東電への寄付か!」と理解した国民はどれくらい居るのであろうか。TVの解説等でも、そういう解説をしているか疑わしい。という私も、仕事が忙しく、東電救済法の詳細をチェックできていない。そこで、私よりももっと詳細を理解した人からのコメント等で、更に、ことの本質を教えて欲しい。 

 交付国債というのは、国が利子のつかない国債を新たに発行して、まずは支援機構に「寄付」するものだ。交付国債を持っている支援機構がそれを現金化したいと思う時に、政府にその国債を差し出して「現金に換えてください」というと、政府が現金を支払う(国債の償還)ということになる。次に、支援機構と東電との関係が非常に不透明だが、新聞報道などから推測するに、どうも機構は交付国債かそれを現金化したものを東電に実質「寄付」するみたいである。東電が記者会見で特別利益として計上できると言っているのだから多分間違いない。但し、もらいっぱなしではなく、詳しく発表されていないが「出世払い」の仕組みはついているのであろう。つまり東電が交付国債か現金をもらうのを、機構からの借り入れの形にすると東電の債務になり債務超過になるので、一旦は「寄付」みたいにして、出世払いの返済にしたのであろうか。(本当に寄付にすると税金がかかるから、その辺はそうならないように賢く潰しているに違いない。) 

 どうして、こんな分かりにくい、ややこしい方式にするのか? 最初から政府が東電に現金で寄付するのではなく、交付国債という形にするのはなぜか? それは、政府として、原子力発電事故の賠償は電力事業者の無限負担という建前を守っているフリをすること、そして、政府のお金を直接東電には投入しているように見えないことにすること。この二つを達成するために、経産省の役人が考えた巧妙な「国民を欺くカムフラージュ」であろうと思う。結局、2兆円の東電への寄付の国債は、政府としては、増税して償還することを考えているに決まっている。とすると、最初から、東電救済増税というのをして、国民から税金を徴収し、それを東電に寄付するのと全く同じことだ。それを、交付国債という国民に分からない手段で誤魔化してやってしまうということとしか思えない。違うだろうか? Nat

●追記(8/11):昨日、上記のことを書いたら、今朝の日経に交付金の解説が出ていた。一応、東電への交付金は「贈与」(寄付)と書いてあったが、日経の記事を国民の多くが読むかどうか分からないので、やっぱり国民を欺くような状態は続いていると思われる。

●追記のついでに書くが、私は何も東電の賠償を東電だけでやれとは言っていない。それは無理である。絶対、国の負担がないと足りないのは明白である。もともと原子力の法律上は、一義的には東電(電力事業者)の責任。ただし、天変地異のような異常な場合に国が支援となっているが、今回はまさにその場合だ。しかも、そもそもの法律がおかしい。電力事業者の一義的責任はいい。事業者が安全に力を入れるから。しかし「青天井」「無限大」の責任は私企業としてあり得ない。 そこで、今回は最初から国の支援が必須なので、私は最初から東電の法的整理が筋と思っていた。しかし、それをすると賠償債務が劣後するから賠償が出来なくなる等とも論じられたが、それは関係者の合意で克服可能である。それなのに法的整理を回避したい勢力(当然、経産省も含めて)が、そう言ってきたに過ぎない。今回の2兆円の「交付金」(寄付)は非常に理解しずらい。先ずは、現在の資本金を100%減資して、そこに2兆円の政府からの増資資金を入れ国有化する。これが筋だ。東電が事故を起こしてから、株を売りたい人は売り、その後買った人は投機筋である。そういう株主まで保護するために、交付金などという国民への目くらましの方法で資金注入するのは如何なものであろうか。  Nat
 
 
 

脱原発は本当にそれでいいのか?

 福島の現状を見ると「もう原発はこりごりだ!」という気持ちになるのは分かる。しかし、それは「気持ち」であって、それをそのまま国策にすることは出来ない。国民の多くも、いきなり原発をゼロに出来ないのは分かっている。だから「必要悪」として時間をかけて依存を減らしていくしかないのでは??という意見の人が多い。しかし「必要悪」でも結局「悪」と看做していることになる。「悪」として原発から逃げていこうとするだけで本当にいいのであろうか。 

 まず、多くの人が思っている通り、もはや原発への依存をこれ以上高める道は採らないにしろ、結構長い期間、既存の原発とはつき合って行かねばならない現実がある。40年以上も経つ古い原子炉は廃炉という難題に取り組むのか、それとも“リフォーム”で安全強化するのかという重要な技術的取り組みの課題がある。もう少し若い原子炉でも、福島事故の反省から、初めて安全神話を脱却し、メルトダウンへの新たな対応を含めた、格段に安全な原発への進化という課題があろう。これらの課題は、原発=悪として、出来れば逃げたいという逃げ腰で取り組めるような問題ではない。国と電力会社、原発メーカーの責任体制、リスク負担体制の再構築を含めて「原発への新しい取り組み国家体制」として進めて行く必要がある。 

 更に特に海外から指摘されているように、日本だけの視野で「もう原発はイヤだ」と駄々をこねるだけでは済まされない。日本以外の世界では脱原発は主流にならない。ドイツの脱原発は、同国には膨大な石炭資源もあり、フランスから原発電力を買えるからで、例外的であろう。むしろ、先進国でも温暖化問題・エネルギー安全保障から脱原発は難しいし、途上国は更にそうだ。日本のお隣の中国でもこれから膨大な数の原発が導入されることは必定だ。このような世界中の留めようのない新規原発導入においては、これから格段に安全性を高めた新型原発の導入を図っていかねばならない。それを支える原発メーカーは、実に日本の三菱重工/日立+仏のアレバ陣営と、東芝/WH陣営の2つに集約されてきている。何も、今後の世界の新型原発ビジネスのチャンスを逃すな等と言っているわけではない。世界が、そしてお隣の中国が格段に安全な原発を利用出来るように中長期の技術開発が必要だ。そのような世界的な課題があるのに、敵前逃亡してはならないと言っているのだ。これ以上福島のような事故が世界中で多発しては地球環境が持たない。福島事故を起こした日本は、国策として世界の原発の安全のために、改めて積極的に取り組みをする義務があると思う。 

その為には、まず自国の原発を安全にしていくことから絶対に逃げてはならない。従来の「国民を騙す原発政策」に区切りをつけ、世界の原発の安全のための主導役を名乗り出るための新しい国策が必要であろう。      Nat

 

 

 

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