旧約聖書に「ルツ記」という、とても短いが有名な物語がある。紀元前1000年余り前のイスラエルの話だ。
その頃、イスラエルは飢饉であった。そこでエリメレクという人が、妻のナオミと二人の息子を連れて、死海の東のモアブという異郷の地に移住した。ところが、エリメレクはそこで死んでしまう。二人の息子たちは、それぞれモアブの娘と結婚した。しかし10年ほどして息子たちも死んでしまい、夫に死なれた女3人だけが残さる。
ナオミからすると、イスラエルで飢饉に会い、モアブに逃げたら夫が死んだ。息子は現地の娘を嫁にしたものの、二人とも死んでしまった。これほどの不幸はない。もうモアブにいる意味はなく、出てきたイスラエルに戻るしかない。しかし戻っても、夫も息子もいないので、女ひとりで生活が出来るあてもない。ナオミは全てを失い、絶望の中で、故郷イスラエルに戻ろうとしていたのである。絶望のナオミは言う。「神が私をひどい目に遭わせた。神が私を不幸に落とされた。」そして、嫁たちに別れを告げる。
二人の嫁は義母のナオミに着いていきたいと言ったが、一人は結局あきらめる。しかし、もう一人の嫁のルツは「あなたの神は私の神」と言って、どこまでもナオミに着いていくという。そこで結局、そのルツは、イスラエルに戻るナオミに同行することとなる。
イスラエルに到着してみると、死んだエリメレクの親戚にあたるボアズという人が登場する。そのボアズが彼女らにとってまさに救世主となり、彼女らはそれぞれ手厚い保護を受けることとなる。お陰でナオミは住む土地を与えられ、またルツはボアズに再婚してもらうまでになる。そうやって、ルツもナオミも幸せになった。そして、ルツとボアズの間に生まれた子の孫が、後のイスラエル王ダビテになり、その末裔にイエス・キリストが誕生する。これが聖書の物語だ。
この聖書の物語は、私たちに何を語りかけているのであろうか。不幸のどん底と思えても、幸福に転ずることもありますよ・・というような我慢話であろうか?
ナオミの遭遇した不幸は尋常なものではない。飢饉、夫の死、両方の息子の死。深い悲しみと、神への憤りが支配する。私たちの人生にも、これほどの不幸でなくても、神をのろいたくなるような不幸が襲い掛かることがあろう。そのような不幸に対する神の応答は何なのであろうか? ルツ記においては、人に語りかける神、人に答える神は登場しない。神は沈黙したもう。そして、ひたすらに神をのろわんばかりのナオミの姿があるのみである。
しかし、それでもナオミは、そんな神の国のイスラエルに戻るしかない。いわば消去法で、イスラエルに戻っていったのである。そこには神への信頼があるわけではない。しかし、そこからのシナリオ展開は、ナオミの想像をはるかに越えるものであった。救世主のようなボアズに出会う。ナオミはボアズのお陰で住む土地を回復できる。ルツに至ってはボアズが再婚してくれる。それがダビデ、キリストの系譜にまで繫がる。あたかも沈黙の神が語りたもうようだ。「ナオミ。あなたが知っているとおり、私があなたに結局幸せなシナリオを与えたのは、あなたが私を信頼したことへの応答としてではない。それは私があなたを愛したからだ。一方、モアブ時代の飢饉、家族の死も、私があなたに与えた私のシナリオだ。しかし、その中でも私はずっとあなたを愛していた。あなたは、今の幸せの中にあって、初めて私の愛を信じたかもしれない。しかしナオミ、私はどんなシナリオ展開の時にも、ずっとあなたを愛し続けてきたのだ。」と。
一方、ルツがモアブで、ナオミに着いていく際に言った言葉が思い出される。「あなたの神は私の神」。彼女らをあれだけの不幸に落としこめたナオミの神のはずだ。そんな神のことを、なぜルツはそう言えたのだろう。ルツも絶望の中にあったはずだ。しかしルツは、消去法でイスラエルに戻ったナオミとは違った。不幸だけであったとも思えるナオミとの生活を支配したナオミの神、そんな神の支配の下でこれからも生きる生活を、自分の選択として選びとったのである。いわば、非合理の選択である。
神は、自分をのろい、消去法で自分に付き従うだけであったナオミをも愛した。そして、何の根拠もないのにそのようなナオミに着き従い、ナオミの神を信じたルツを、更に大きく愛して下さったのである。私たちの人生は、不可解な不幸に満ちている。「神はどこにいるのか?」との問いを禁じえないこの世である。しかし、そのような中で、「いや私があなたに与えるシナリオは、あくまでも、私のあなたへの愛の物語なのだ!」という神の無言の声を、ルツのように無条件で信じることが出来るであろうか? ルツ記は、我々にそのことを問いかけている。
Nat