♪♪ NATの独り言 (心・ジャズ)

生きていく上で信じてること。大好きなジャズのこと等

2011年09月

旧約聖書のルツ – 神さまのシナリオを信じた人

 旧約聖書に「ルツ記」という、とても短いが有名な物語がある。紀元前1000年余り前のイスラエルの話だ。 

 その頃、イスラエルは飢饉であった。そこでエリメレクという人が、妻のナオミと二人の息子を連れて、死海の東のモアブという異郷の地に移住した。ところが、エリメレクはそこで死んでしまう。二人の息子たちは、それぞれモアブの娘と結婚した。しかし10年ほどして息子たちも死んでしまい、夫に死なれた女3人だけが残さる。 

 ナオミからすると、イスラエルで飢饉に会い、モアブに逃げたら夫が死んだ。息子は現地の娘を嫁にしたものの、二人とも死んでしまった。これほどの不幸はない。もうモアブにいる意味はなく、出てきたイスラエルに戻るしかない。しかし戻っても、夫も息子もいないので、女ひとりで生活が出来るあてもない。ナオミは全てを失い、絶望の中で、故郷イスラエルに戻ろうとしていたのである。絶望のナオミは言う。「神が私をひどい目に遭わせた。神が私を不幸に落とされた。」そして、嫁たちに別れを告げる。 

 二人の嫁は義母のナオミに着いていきたいと言ったが、一人は結局あきらめる。しかし、もう一人の嫁のルツは「あなたの神は私の神」と言って、どこまでもナオミに着いていくという。そこで結局、そのルツは、イスラエルに戻るナオミに同行することとなる。 

 イスラエルに到着してみると、死んだエリメレクの親戚にあたるボアズという人が登場する。そのボアズが彼女らにとってまさに救世主となり、彼女らはそれぞれ手厚い保護を受けることとなる。お陰でナオミは住む土地を与えられ、またルツはボアズに再婚してもらうまでになる。そうやって、ルツもナオミも幸せになった。そして、ルツとボアズの間に生まれた子の孫が、後のイスラエル王ダビテになり、その末裔にイエス・キリストが誕生する。これが聖書の物語だ。 

 この聖書の物語は、私たちに何を語りかけているのであろうか。不幸のどん底と思えても、幸福に転ずることもありますよ・・というような我慢話であろうか? ナオミの遭遇した不幸は尋常なものではない。飢饉、夫の死、両方の息子の死。深い悲しみと、神への憤りが支配する。私たちの人生にも、これほどの不幸でなくても、神をのろいたくなるような不幸が襲い掛かることがあろう。そのような不幸に対する神の応答は何なのであろうか? ルツ記においては、人に語りかける神、人に答える神は登場しない。神は沈黙したもう。そして、ひたすらに神をのろわんばかりのナオミの姿があるのみである。 

 しかし、それでもナオミは、そんな神の国のイスラエルに戻るしかない。いわば消去法で、イスラエルに戻っていったのである。そこには神への信頼があるわけではない。しかし、そこからのシナリオ展開は、ナオミの想像をはるかに越えるものであった。救世主のようなボアズに出会う。ナオミはボアズのお陰で住む土地を回復できる。ルツに至ってはボアズが再婚してくれる。それがダビデ、キリストの系譜にまで繫がる。あたかも沈黙の神が語りたもうようだ。「ナオミ。あなたが知っているとおり、私があなたに結局幸せなシナリオを与えたのは、あなたが私を信頼したことへの応答としてではない。それは私があなたを愛したからだ。一方、モアブ時代の飢饉、家族の死も、私があなたに与えた私のシナリオだ。しかし、その中でも私はずっとあなたを愛していた。あなたは、今の幸せの中にあって、初めて私の愛を信じたかもしれない。しかしナオミ、私はどんなシナリオ展開の時にも、ずっとあなたを愛し続けてきたのだ。」と。 

 一方、ルツがモアブで、ナオミに着いていく際に言った言葉が思い出される。「あなたの神は私の神」。彼女らをあれだけの不幸に落としこめたナオミの神のはずだ。そんな神のことを、なぜルツはそう言えたのだろう。ルツも絶望の中にあったはずだ。しかしルツは、消去法でイスラエルに戻ったナオミとは違った。不幸だけであったとも思えるナオミとの生活を支配したナオミの神、そんな神の支配の下でこれからも生きる生活を、自分の選択として選びとったのである。いわば、非合理の選択である。 

 神は、自分をのろい、消去法で自分に付き従うだけであったナオミをも愛した。そして、何の根拠もないのにそのようなナオミに着き従い、ナオミの神を信じたルツを、更に大きく愛して下さったのである。私たちの人生は、不可解な不幸に満ちている。「神はどこにいるのか?」との問いを禁じえないこの世である。しかし、そのような中で、「いや私があなたに与えるシナリオは、あくまでも、私のあなたへの愛の物語なのだ!」という神の無言の声を、ルツのように無条件で信じることが出来るであろうか? ルツ記は、我々にそのことを問いかけている。    Nat

武器輸出三原則の緩和? その2

 日本人は、意見に根本的対立があった場合、それを徹底的に戦わして白黒つけるのを避けたがる。そういう民族だ。国防・安保体制問題という国家の最重要なことがらでも、同じく対立的議論を回避してきている。国防に関する基本的な意見としては、「もはや憲法9条の制約を一切撤廃し普通の国として軍備し、他国と同様に国連などの多国籍軍に参加する国になろう」という意見から、一部の人のように「完全無抵抗・完全非戦主義」まで幅広いレンジがある。そして、完全永遠の非戦を謳う憲法9条を奉じていると共に、その憲法を本格的に見直す議論は避けたまま「解釈」を拡大、自衛隊法で実質的に他国同様の国防軍を配置。そして、それが使う武器の原則も法律にはせず、総理大臣の発言による原則とかで輸出を実質禁止にしたりする。多国籍軍との関係での集団的自衛権も、国連憲章上は認められているが憲法上の制約で実際には難しい・・などという「政府見解」なるものでお茶を濁す。

 要するに、対立的な議論を侃々諤々戦わせた上で、時代が変われば時代に応じたポリシーやルールを憲法や法律で明確に規定していくのではなく、憲法や法律は建前として一応おいておき、解釈や見解を投げながら世論などの反応を見つつ「おのずと落ち着くところに落ち着かせようとする」手法でやってきている。しかし、こと国防のことで、このような「なしくずし的な手法」で決めていくのは危険極まりない。

 この際、武器輸出三原則だけの表面的議論ではなく、そもそもの国家・国防のあり方を国会レベルで大議論して欲しい。もちろん今のように各党がどれも非力で政局争いをしているような状況では、それは望むべくもないが、早く二大政党制にでも漕ぎ着けて、侃々諤々国防論を戦わせて欲しい。沖縄の普天間基地の問題も、結局、国防論を抜きに場所はどこにするか?などだけの話しにするから決まらないのである。

  前にこの国防の問題に関する私の基本的考えは、このブログで何度か書いている。20099月「国防、本当にどうする?」等をご参照。そのブログで述べている、日本の国防のあり方に関する私の意見を以下の通り再掲する:

(1)自衛隊は日本の直接的自衛に限定。即ち、海外派兵は一切せずに、極東の米軍の支援を得つつ日本防衛に専心する。(平和憲法を持つ日本の拘り。)逆にいうと、日本国外での日本の安全保障に係わる地域紛争の武力による解決は、全て米軍に依存する。

(2)自衛隊とは別に強い国際協力隊を育成・組成して、世界各地の紛争国などにおける安定・復興を支援する。

(3)そしてもう一つは、日本国内の米軍基地につき、その利用を長期的に米国に保証すること。これが、(1)で述べたとおり日本国外で日本の替りに米国に武力行使してもらうための、最大のGive & take 交換条件となる。

  さて、武器輸出三原則に戻るが、もし日本の国策が上記のように定義できるなら、日本の自前の武器はなくても良いとなる筈だ。米国依存でいい。それのアシストだけでいい。所詮、国のコンセプトとして対米軍事依存を大前提にしているのだから、米国から切り捨てられて、自前の食料と武器で戦う局面は想定しないでいい。日本の雇用を維持するための産業は非軍事民間分野で幾らでもある。大きく規制緩和し、新産業を促進すればいい。私はそう思う。  Nat





 


 

武器輸出三原則の緩和? その1

 民主党の前原政調会長が武器輸出三原則の見直しを示唆し、話題になっている。前にも北澤防衛大臣が類似の発言をしているので、政府・民主党の中にくすぶっている論点であろう。日本は60年代から武器輸出三原則を持ち、共産圏、国連決議上の武器輸出禁止先、紛争国に日本から武器輸出できないばかりか、それ以外でも基本的に自粛するということで、実際には米国向け以外は輸出が出来ない。それを、そろそろ見直し緩和しようという話しだ。このことに関連し、私としては以下のことを主張して置きたい。

 まず、そろそろ緩和という場合の、その主たる狙いは何かだ。三菱重工を筆頭とする日本の武器メーカーは、日本の自衛隊向けに武器を開発し納入しているが、海外に輸出は出来ない。それで何が困るかというと二つある。一つは、最近は複数の国で武器を共同開発するのだが、日本が開発に参加して開発された武器は当然世界に出回るので、それでは武器輸出三原則に抵触する、だから共同開発には参加出来ない。となると、単独開発しかなく、それでは日本の開発できる武器のレベルが低下するという問題。二つ目は、三菱重工などが生産する武器が自衛隊向けだけだと量が限られるので、コスト・価格が高くなったり、また質も向上しにくいという問題だ。それでは防衛費がきつい財政の中で、日本の装備のレベルが落ちていく。以上が緩和を必要とする理由のようだ。

 つまり、このままでは自衛隊の質が低下し、国防・安全保障に不安が出るというのが基本的問題意識だ。しかし、更に以下の2つの論点も含まれている気がする。
 

● 自衛隊が無理して国産品を使うから不安があるなら、もう全てアメリカなどから輸入したのを使えばいいではないか? という割り切った考えもあろう。しかし、それに対しては「いざとなると」自前の武器を持っていないとまずいという根本的な反論が出てくる。これは食料自給論と同じで、戦争になったら他国に食料や武器を依存していられないという想定だ。⇒ ここで国民として考えるべきは、果たして他国から食料や武器の供給を絶たれるような戦争状態、つまり太平洋戦争当時の日本のような状態を想定するのかどうかだ。もし、日本の領土の直接的防衛は自衛隊がやるが、それ以上の広域の自衛対応は安保条約で米国に依存することとするなら、自衛隊の装備は全て米国製でも良いことになるのではないか。なぜゆえに、米国からも切り捨てられ、自給食料と自給武器で戦い続けるような状況までを想定する必要があるのであろうか? ここに私の疑問がある。

● もし、そこまでは想定しなくていい、本当は別に米国製でもいいのだが・・・と仮定して、それでも自前の武器産業を維持したいとすると、それは軍需産業の産業としての温存論ではないだろうか? つまり、日本の産業の衰退が起こりつつある中で、日本の軍需産業(たぶん1兆円産業)も衰退させてはならない、むしろ輸出可能として発展させようという産業振興や雇用助長論(および軍需産業からのロビー圧力)であろう。即ち、どこの国も(日本と組んで敗戦したドイツもイタリアも)軍需産業を育成している。死の商人とかいう奇麗事を言っていると、日本がいよいよ貧民国になるという論旨だ。そもそも憲法9条で戦争行為は自衛を含めて一切放棄したはずなのだが、自衛はいいことにしよう、またその為の軍需産業は復活させようということで、ここまで来ているのだから、今さら突然「何も死の商人の軍需産業まで育成しなくてもいいではないか」などと偽善者みたいなこと言うなよ!ということになろう。

 このように、武器輸出三原則を議論する場合、結局、憲法9条問題を含めた日本の国防・安保体制の根本的あり方論を避けておいて、武器の話だけをしようとするところに無理がある。つまり、国防・安保体制に関する様々な異なる意見を玉虫色の議論で適当に誤魔化して放置しておいて「色々な意見があってもいいけれど・・・・当面の武器輸出はどうしましょうね?」みたいな話しをするからすっきりした議論にならないのである。その事を更にその2で。  Nat



 

キリスト教と悪霊  その3

 クリスチャンが信じていることをシンプルに言い表す方法は色々あるだろうが、その例として一つ書いてみよう: 「愛の神は私を愛して下さっていて、目には見えないけれど、永遠の救い主であるイエス・キリストを私のそばにおいて下さっている。それによって私は支えられている。」つまり、神さまは、遠い空のかなたから私たちを愛してくれているのではない。直ぐそばに「目には見えない救い主イエス・キリストを置いて下さっている」という信仰だ。

「その2」で書いたとおり、現代のクリスチャンは、「霊」とか「たましい」とかいうとオカルトっぽいので、そんな言い方は避けて、「目には見えないが、そばにいてくれるイエス様」というような風に言う。どこか、「死んだおばあちゃんが、私に力をくれている」などという、伝統的な日本人の心の中にある、死んだ親族による加護とセンスが合い通じるかも知れない。しかし、死んだおばあちゃんの場合も、余り「死んだおばあちゃんの霊が・・」などというように、露骨に「霊」とか「たましい」というような言い方まではされない。目には見えないイエス様も、死んだおばあちゃんも、「近くにいてくれている」「見守っていてくれている」というだけで十分で、オカルト的に「霊」とか「たましい」とか言わなくても、なんとなく分かった気がする。それが日本人の心情ではないだろうか。「霊」や「たましい」を、心霊写真でも撮れば写るかも知れないナマナマしいお化け的なものという感覚で捉えるよりも、山にも木にも水にも岩にもスピリットが宿るとした、古来からの日本人の自然な意識がいまだに支配的なのであろうか。

 しかし、パウロはこれを「キリストの霊」と言い表した。また同じく新約聖書の使徒言行録(イエスの時代の後の弟子たちの時代の記録)では「神さまからの霊」として聖霊が与えられたとある。とするとクリスチャンとしてはそれをオカルト的でイヤだとばかり言ってられないのではないか。また、このような神の霊のことを本当に思うなら、その反対概念でもあり、イエスが戦ったと言われる悪霊のことまでも、本当にあるかも知れないと思わないと論理的な一貫性に欠けるのではないだろうか。

 ということまで言った上で、私が思うことを申し上げたい。

1.現代日本人では、オカルト的な「霊」は心情に合わないかもしれないけれど、クリスチャン の原点であるペテロ・パウロなどの弟子・初期クリスチャンたちは「ナマナマしい霊」としての「キリストの霊」「神の霊」を信じ、それによって生かされたと思われる。とすれば、クリスチャンはもう少しそのことを、改めて想い起こしてもいいのではないか。だから弟子たちに聖霊が与えられた聖霊降臨日(ペンテコステ)についても、私は、教会の子どもたちに対して臆せず、「強い風のような音がして、舌のような形の炎のような聖霊が弟子の一人ひとりの頭に留まり、それで彼らは不思議な力を得た」という使途言行録の報告を、そのままナマナマしく伝えようではないかと言い続けている。 

2.ではイエスが追い出した悪霊はどうか。現代では、病気の多くは必ずしも悪霊の仕業ではないと思える位に医学が進歩した。そのような現代における私たちの日常生活では、これこそは悪霊!?と思わざるを得ない事象には殆ど遭遇しないだろう。またテレビなどでやっている心霊現象の多くはマヤカシかも知れない。しかし、それでも、社会の一部の人で、自分の体なり住まいに悪霊が憑いているとして苦しんでいる人もいるかも知れないと思う。中にはイエスが戦ったように、本当に悪霊なるものが憑依しているという、まさに信じられないケースもあるかも知れない。しかしエセ科学的な人は、そのような可能性を頭ごなしに否定するかも知れない。でも私は、まだまだ現代科学では把握できてない事象の方が多いのではと思っている。そして、イエスが戦った悪霊というのが全てその当時の迷信で、イエスの戦いは思い込み・勘違い等と決め付けるのも行き過ぎであろうと思っている。つまり、そういうことがあったかも知れない、今もあるかも知れないと思っているということだ。そして、目には見えないイエス・キリスト(の霊)を信じるのであれば、今の世で悪霊に苦しめられているという人がいた場合、「あなたは迷信に取り付かれています」などと言うばかりではなく、イエス・キリストの霊による除霊を発想するほうがクリスチャンとしては自然ではかなろうか。実際の除霊はカトリックの専門家に依頼するかもしれなくてもだ。

 以上が、私の思うキリスト教と悪霊の関係だ。悪霊、あるいは普通の霊そのものについて、それを調査している人たちによる電磁波の変化、録音・録画・写真にキャッチされる未解明現象などについても色々あるのだが、本項の範囲を越えるので今回は書けない。しかし私は、クリスチャンとして、そして生まれつき理科系気質もある人間として、そういう事柄に関する科学的な調査・研究がもっと早く進展して欲しいと思う。それにより、いつの日かクリスチャンが「神の霊」「キリストの霊」という時に、オカルト的な嫌悪感を感じなくて済むようになればいいなと思う。   Nat


キリスト教と悪霊  その2

 前回のその1で、イエスは、それまでのユダヤ教が「ユダヤの神が強いか、お前らの神が強いか」というローカルな争いをしていたのを乗り越え、人間のたましいが神の霊によって罪と悪霊から解放されることを証しし、それによって“新興宗教キリスト教”が出来たこと、そして、中世カトリックまではこの伝統を引き継いで悪魔祓い儀式をしてきたこと、しかし、近世のプロテスタントで悪魔祓いが抜け落ちていくことを述べた。 

 では何故、近世のプロテスタントで悪魔祓いが抜け落ちたのか? しかしこの問題、学者ではない私としては推測の域を出ない。それで良ければ以下を読み進んで頂きたい。まず、宗教改革は、中世のカトリックへのアンチテーゼ(くつがえし)として起こったものであり、かつ、当時の世界のうねりであるルネッサンス(近代的自我の回復、合理主義)と並行して発生したものである。このため、「中世的なもの」が意図的にそぎ落とされていく。「神と人」の関係に構図を純粋化するため、その間に介在する利権的聖職者や「おふだ」みたいな聖体パンなどを否定する中で、神と人の関係に食い込んでくる悪魔・悪霊についてもトーンダウウンされてきたと思われる。そして、「聖書に戻ろう」運動、カトリック的な儀式から脱却する運動の中で、形骸化した聖餐式(聖体拝受)から離れると共に、悪魔祓い儀式も隅っこに追いやられていったに違いない。かくして、近代プロテスタントでは、人の神との関係が問われても、悪霊については「中世的概念」や迷信として却下されるのである。 

 それで、明治維新、更に戦後、日本にキリスト教が伝わるが、そのキリスト教は、「知的・合理主義的欧米文化」と表裏一体のものであった。日本にも従来は「鬼は外、福は内」とか言って「不幸の神」を遠ざけたいという文化はあった。また、「狐に憑かれた」等といって、悪霊の憑依を信じる文化もあったし、霊能者による除霊の儀式もあった。しかし、日本におけるキリスト教は、かかる日本固有の考えを「迷信」として排斥することで布教をしてきた面がある。だから、日本のキリスト教、特にプロテスタントはそもそも悪霊そのものを語る気質を持っていない。むしろ悪霊などと言うと、途端に迷信的であるとかオカルト的であるとかいうことになり、正統なるキリスト教の話でないということになるのである。 

 しかし、前回書いたとおり、キリスト教の原点には悪霊と戦ったイエスの存在がある。そして、イエスの復活の後、弟子たちに炎のような神の霊(聖霊)が与えられたというのが、我々クリスチャンの教会の出発点である。ということで、知的・合理主義的な現代日本のクリスチャンにはそういうのを好きでない人もいるだろうが、本来クリスチャンの信じるべきものは、我々を罪からも悪霊からも解き放つ神の霊・キリストの霊であるのだから、まさに「霊の世界」との係わりを信じているはずではないだろうか。もう少しそのことを「その3」で書く。    Nat

 

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