♪♪ NATの独り言 (心・ジャズ)

生きていく上で信じてること。大好きなジャズのこと等

2012年05月

菅首相の原子力緊急事態宣言 - 2時間もかかったって?!?!

 福島原発事故の国会調査委員会が菅元首相に事情聴取したやりとりが報道された。特に緊急事態宣言に至るまでに、2時間も余分に時間が掛かった件が、私としては気になった。
 

 時間ごとの推移を見てみると:311日の246分に地震発生、3時半過ぎに津波到来。337分に全電源喪失。436分注水不能。445分に東電から政府に注水不能の報告。5時ごろ海江田経産相から菅首相に緊急事態宣言を要請。73分に原子力緊急事態宣言。菅首相に緊急事態宣言を要請してから2時間も菅首相が預かった形になった。菅首相は突然の事態で驚き、まずは原子炉の状態はどうなっているのか聞いて理解しようして時間が経過した。更に6時からは何と与野党党首会談があり、緊急事態宣言の件は一旦棚上げして会談に行き、戻ってから宣言を出したので更に遅れた。菅氏は、わざと遅らせたこともないし、結果的に遅れて問題が出たとも思えないと開き直っている。しかし、おおいに問題が残る。
 

 緊急事態宣言は原子力災害対策特別措置法15条で、今回のような緊急事態発生の場合、経産省大臣がただちに首相に報告し、そして首相はただちに緊急事態宣言を出し、関連の電力会社や地域に対して対策の指示を出すことになっている。首相にこのような緊急の指示権限が与えられる事態は、大きく言って、災害・騒乱・戦争の際の警察あるいは自衛隊への出動命令と、非常災害や原子力災害の緊急事態宣言と対策指示の2種類である。もし、このような重大な権限が首相に与えられているとすると、緊急事態が起こる前から、首相就任と同時に、いざ事態が起きた時のための基本的な知識と心構えを首相に得させて置かないといけないはずだ。ところが、少なくとも原子力緊急事態宣言については、経産省も実際にそのような事態が起こると想定していなかったようで、首相に対して、原発で最大の事故は原子炉の冷却不能であって、そうなるとただちに間を置かず緊急事態宣言を出し、避難などの指示を出す必要があることとその意味を、全く事前ご説明していなかったという。そこに菅氏のあの性格だ。日本政府が首相に重大権限を与えておいて、何らその準備をしていなかったこと。そこに緊急事態ではヒステリーを起こす人が首相になっていた。この二重の不幸が重なって、緊急事態宣言が2時間棚上げになったのだ。  

 そうなると、戦争勃発の場合の、自衛隊への主導命令についても、現在の野田首相にちゃんと事前の説明と準備を行っているのだろうかが心配になる。菅氏は、原子炉の炉心の冷却のイロハから聞いたらしいが、まさか戦争の際に「戦争って何だ?自衛隊は何をするんだ?」等という質問からは始まらないであろうが、それに近い、アホな対応から始まる心配がある。 

 かくかように、日本人という稲作農耕民族は、こつこつ努力することは得意だが、ゲルマン民族と異なり、非常事態等の緊急事態への迅速な対応には全然向いていないみたいだ。日ごろのその為の対応体制の準備も一般的に弱そうだ。今度、原子力規制委員会を政治家の介入許さない3条委員会とする自民党案と、政治家の介入を許す民主党案が、今ぶつかっているが、そもそもどちらの制度にしても、作った運営体制を、ちゃんと運営できるような準備と人選をしてもらいたいものだ。でないと、日本はえらいことになりかねない。      Nat



 





トキは大切? カラスは敵?

日本では2003年に、日本に自然にいたトキが絶滅した。それで、中国にいる同種のトキを佐渡に連れてきて、もう一度、日本で育たないかという悲願で見守ってきた。それが、今般生まれた雛が巣立ったというので、喜びの報道が相次いでいる。 

しかし、私はやっぱり天邪鬼なのであろうか。佐渡の雛の巣立ちを心の底から祝福しているかというと、ちょっと、そうでもない・・ということになる。 

そもそも、日本におけるトキの歴史を振り返ってみよう。トキはカラス同様、極くありふれた鳥であった。しかも、田んぼを踏み荒らすので、カラス同様の嫌われものだった。それが、明治時代になって、カラスとは違い、トキの肉と羽根は売れるということで乱獲され、実質的に1925年くらいまでに日本では絶滅したものだ。そして偶々佐渡で発見された生き残りも2003年に死んだので、その報道が皆の記憶に新しい。しかし、本質的には、もう80年以上前に、肉と羽根にするために、日本人自身が滅ぼした鳥である。 

 それを、もう一度、佐渡で繁殖させようという運動は、一体何なのであろうか? 日本にいたトキと、中国のトキは生物学的には全く同種のようなので、中国のトキを佐渡に連れてきて繁殖させても、生物学的には大した意味はない。意味があるとすれば、明治時代に乱獲で滅ぼしたしまった鳥に対する、日本人の罪悪感を、少しでも癒せるかどうかという程度のことではないだろうか。 

 今、私たちが生活の周りで目の敵にする鳥は、もっぱらカラスだろう。カラスも生活圏を狭められながら、必死で人間の出す生ゴミなどとの係わりを追求している。それに対する人間の対抗策が究極的に勝てば、もしかして将来カラスも日本で絶滅するかもしれない。その時、中国からカラスを連れてきて繁殖させるであろうか? 多分、ノーだろう。トキはもう一度繁殖させたいが、カラスはイヤだというのは何故か? それは、ひと言で言うと、日本人はトキはそれほど嫌いじゃないが、カラスは黒く死神のようで、しかもずる賢しこくて大嫌いというだけのことだろう。 

 前にこのブログで書いた。石垣島のサンゴを保護しようというが、それを食い荒らすオニヒトデが絶滅しそうになっても「オニヒトデに愛の保護を!」という運動は起きそうにもない。サンゴは、人から見てキレイだし、石垣島に観光収入をもたらす。しかし、オニヒトデは見るからにバケモノだ。観光に繫がらないしサンゴを食う。カラスと同じ全くの嫌われものだ。 

 しかし、自然界に存在する生き物を、人間が好き嫌い、人間の役に立つ・立たないで、差別していいのであろうか? あるものは、人間が好きだからという理由だけで、絶滅しそうになると人工繁殖に公的資金まで投入する。人間が嫌いな別の種は絶滅を願う。しかし、私は、人間にはそんな権利はないと思う。絶滅しそうな種が気になるなら、それがカラスであろうが、ゴキブリであろうが、オニヒトデであろうが、保護すべきだ。過去の乱発や環境破壊で多くの種を滅ぼしてきた罪悪感はあろう。しかし、それなら、まだ生きている全ての種、カラスもゴキブリもオニヒトデも、みな大切な命として保護するか、あるいは、全て、もう自然体に任せるしかないのではないか。好きな生命だけ繁殖させるのは、人間の過ちを更に拡大するものではないのか? 私は、このような根本的疑問を禁じえない。貴方はどう?       Nat

ウランは悪魔が作ったのか?

 前回、福島事故と原発やり直しについて書いて以来、1ヶ月ほど間があいた。前に書いたとおり、原発再開容認派に対し脱原発派が批判の矢を投げかけるが、とかく最初からイデオロギーのレベルでの批判になるので、対立を深めるのみである。 

 日本のキリスト教の世界の某指導者が書いている。「神は地球を創造したとき、これを見て良しとし、人間に地球の管理を委ねた。しかし人間は創造の秩序に逆らって核分裂するウランを掘り起こし、軍事力と電力を貪って、地球をひどく汚染してしまった。」と。しかし、ウランは悪魔が創造したのか? そうではない。ウランも神が創造され、「良し」とされた創造物の一つである。それを掘り起こして利用しようとする人類の試みが「神の創造の秩序に逆らったもの」と誰が決めたのであろうか。 

 人類のエネルギー利用の歴史を振り返り見ると、恐らく100万年くらい前の旧人類が既に火の利用(と同時にその為の燃料の獲得と利用)を始めている。次に100年位前から電気を利用し出した。そしてついには70年弱前に、核エネルギーの利用に着手した。物質そのものの中に秘められた膨大なエネルギーを引き出すものだ。これらは、全て神の創造物を人間が技術により有効利用しようとする歩みである。しかし、火は人類の繁栄をおおいに支えたが、同時に同じ火の原理は火器という兵器(殺人手段)をも生んだ。また人間の作り出した火により常に多数の焼死者も発生してきた。電気の恩恵は言うまでもないが、今日の近代兵器(殺人手段)で電気技術に依存しないものは何一つないことから、電気も両面ある。感電死する者もいる。つまり、人類が利用し出した火も電気も恵みにもなれば人の死にも繫がる。その意味では核エネルギーも同じである。恵みにもなれば人の死をも生む。しかし、核が火や電気と違う点があるとすると、余りにも発生エネルギーが大きいこと、制御に非常に高度の技術が必要であること、そして放射線という厄介なものを伴うという3点であろう。このため、核は恵みになれば大変な恵み、脅威になれば大変な脅威になるというものである。そのような違いはあるが、その違いをもって、核は神の秩序に逆らうもの、火と電気までは神の秩序に沿うものと、黒白に分けるのは如何なものかと思う。 

 アメリカにアーミッシュという人たちがいる。ドイツ系移民がペンシルベニアなどで彼らのキリスト教信仰から、近代以降の技術を廃し、近代以前の様式の農耕・牧畜だけで生活している集団だ。勿論、電気や自動車は使わない。そういう生活が神のみ心に適うと信じるものだ。ア-ミッシュの人たちがそういう信仰を持って生きるのは、彼らの自由である。しかし、火まではいいが、電気からはダメという線引きをするその考え方に、私としては乗れない。電気も、神の創造した世界からの大きな恵みとして、感謝しつつ利用することこそ、神のみ心に適うと私は信じるからだ。同様に、電気まではいいが、核からはダメと線引きする生き方は、現代版のアーミッシュになるものと思う。核エネルギーの場合も、核兵器について全面的に神に感謝することは難しかろう。開発した米国指導者も、戦争終結とか共産主義ソ連への牽制とか様々な自己合理化を通じて、何とか罪の意識から逃れてきたものであろう。しかし、核エネルギーを人類の生活向上のために利用しようとすることについては、今後、人類が謙虚に「より安全な原発へのやり直し」として取り組み、その結果、良い成果を得られれば、おおいに神に感謝すべきことであろう。    Nat

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