♪♪ NATの独り言 (心・ジャズ)

生きていく上で信じてること。大好きなジャズのこと等

2012年07月

科学と信仰  番外編「オットセイの自意識」

 前回書いた、意識とは何かに関連した、小噺。 

 人間に「意識」があるのは、誰でも実感があるはずだ。でも、ミミズには「自意識」があるようには見えない。しかし、犬くらいになると、散歩に連れていってもらえそうだと感じた瞬間からの飛び跳ねる喜びようを見ると、明らかに「意識」がありそうだ。 

 前回、「科学と信仰 その4」で書いた、『ソウルダスト-意識という魅惑の幻想』の著者ニコラス・ハンフリー博士によると、高等生物が進化の過程で「自分は生きている。生きている感覚っていいな。」と実感する「自意識」をもったことで、生きる力が増し加わり、自然淘汰上優利になったのであろうという。

 先日、ハワイの水族館の屋外施設で、一匹のオットセイが大きなプールの真ん中の一ヶ所にずっと留まり、じっと目をつむり、満足そうに、垂直に浮いたまま、少しづつ回転しているのを見ていた。陽の光、水と風の感触、「ああ、私は生きている」と、そのオットセイが言っているように思えた。やっぱり、生物学の原理を越えて、ここに神さまの創られた「NATの命」も「オットセイの命」もあるんだ! そう思った時、変に、そのオットセイとNATは友だちだった。    Nat

 


科学と信仰 その4

 意識とは何か? これは現在の科学の中で、もっとも分っていない深遠なテーマだ。太古の昔から哲学者は様々な考察をしてきた。そして、現代の脳神経学者が、懸命に、意識を説明しようとしているが、脳神経学者と哲学者がまだ合流できない。 

 その中で、最近読んだ本『ソウルダスト-意識という魅惑の幻想』は秀逸である。ロンドン大学の心理学の教授であるニコラス・ハンフリー博士の著作だ。この本は、意識の神経学的な発生理由について、私の知る限り、人類初の斬新な仮説を打ち出したものだ。本人が認めているとおり、まだ入り口に過ぎないが、ワクワクする仮説を提示している。まだ別の機会にもう少し詳しく本ブログで紹介したいが、ひと言でいうと、まず生物の体に対する何らかの刺激に応じて発生する神経回路内の信号が、何らかの理由で刺激がなくなってもグルグル回ることが出発点。そして、次第に生物は、刺激を受けた自分が刺激を感じたことを自覚するという仕組みを持つようになる。そのような自覚の仕組みは、生存に優利な特質なので、その方向で進化が起こった。それにより、高等生物は「自分」を感じるという特質を得たという話しだ。 

 我々の意識を支える脳がこのように進化してきて、その結果、我々の意識を脳が支えているという話しは大変結構なことだ。意識を脳が支えているのは間違いない。だって、夜、脳がスイッチを切って休むとき、我々の意識はなくなるのだから、それは当たり前だ。我々の通常の意識は、物質である脳が支える。しかし、このことは、物質である脳を離れて意識があり得ないことにはならない。脳を離れた意識、いわゆる変性意識の存在の可能性、これは科学がまだ全く研究の着手も出来ていないテーマであろう。セーガンも書いているが、臨死体験、たましいの肉体からの離脱体験、霊媒のとりつなぎなどということもある。(但し、セーガンは、これらの殆どが科学的に立証できてない、あるいはマヤカシと書いているが)。そして、更にセーガンの「3つのテーマ」にも登場するテレパシー・念力、生まれ変わりの幼児、更にはセーガンは否定するがオーラ等と、科学者がまだ十分研究しきれてない事象仮説は色々ある。我々の通常の意識ですらも、まだ殆ど解明されていない。ましてや、脳の支えのない超意識なり、肉体を離脱したたましいの可能性については、私の生きている間に、人類の科学はそこまで到達しないであろう。 

 さてセーガンの書いていることに戻ろう。セーガンの主張は、専ら、進化も否定する多くのアメリカ人に向けられる。「信仰を守るために、科学的事実に目を背けるのか?」このことには、まったく異論はない。信仰を続けるために、科学を否定する必要は全くないからだ。私は、むしろ逆を言っている。もっと科学が大きく進歩して、「偶然」を神が支配し得るかも知れないこと、物質を離れた別の意識が存在し得るかも知れないこと等を、早く研究して欲しい。そして、それが大分解明された時点で、神が科学のメスで解明できるかというと、それは又違うと思う。人間の説き明かすこの世の物理・化学的な原理が、超意識やたましいを相当解明しても、神はなおその奥の奥のことであろうからだ。 

 昔、人は火山の爆発や雷を神の怒りの業と信じた。そのようなことが科学で説明されてきた今、「神の業」は狭い分野に追い込まれ、無くなろうとしているのであろうか? 断じてそうではない。火山のマグマの奥に、雷の電気放電の奥に、最終的には神に至るこの世の仕組みがまだまだ秘められており、人をそれを未だ知るよしもない。科学には更に進歩して欲しい。それにより、人類は神の存在の奥深さを更に確信するのである。私はそう思う。 Nat

 

  

科学と信仰 その3

 セーガン博士は宗教への強い疑義を提唱している。伝統的なキリスト教だけではない。ご存知のとおり、アメリカでは特に西海岸でNew Ageと言われるスピリチュアル運動が盛んだ。セーガン博士は、物質とは別の「たましい」なるものの存在には科学的証拠が見つかっていないことを説く。更に、神がこの世に介入していることを証拠づける事実もまだ見つかっていないと説く。 

 この辺は、リチャード・ドーキンズの本にあるのと似通っている。祈りに効果がないことを実験的に立証した話を書いたドーキンズに対する私の反論は、2007123031日の当ブログ「神は妄想? その4、その5」をご覧頂きたい。それは、セーガンの「神のいる証拠が未だ見つからないこと」にも同様に向けられる。しかし、私がセーガンに着目したいのは、ドーキンズが逆ドグマで「神は妄想」と決め込むのに対し、セーガンは、「今のところ、まだ証拠がない」との謙虚な態度をとっていることだ。そして、更に私の関心を惹くのは、セーガンが多くの超常現象などを調べた結果として、以下の3点はまだ全てがニセモノと割り切れないものがあると認めていることだ。(1)コンピューターの乱数発生に対して念力が(若干の)影響を及ぼせること、(2)感覚を遮断された人が、自分に向けられた思考やメッセージを受信できること、(3)幼児が生まれ変りとしか思えない前世体験を詳しく持っていること。セーガンは、これらは科学でまじめに調べてみる価値のある事柄であると書いている。 

 この辺から、ドーキンズへの反論に続く、私の一貫した主張を書いていこう。私は、「神が「宇宙の精神」で遠くあるだけなら、私たちの人生に関係もなく、信じる意味がない。イエスキリストが証ししたように、神は我々の人生の只中に愛をもって係わり、我々をも我々の道筋をも変えたもうと信じることにこそ意味がある。」と言っている。つまり、神なるものはこの世に係わりを持ち得るということだ。ここからが大事なのだが、神は科学で説明できない超自然的なやりかたでこの世に係わりを持つのではなかろう。もし超自然に見えるなら、それは科学がまだその現象を解明できていないだけであろうと考える。この世は神が創造し、この世の物理・化学的な全ての原理も神が創造したとしよう。神がこの世に係わりを持つのに、自分が創造した原理だけでは不十分で、わざわざ原理破りの例外を発生する必要があろうか? 神のなしたもう業は、勿論、神自身が創造した原理を神自身が発揮して行うものである。しかし、人間は、まだ神の創造した原理の一部しか解明できていないということだろう。 

 セーガンの3つの未解明の現象もそれに関係するかも知れないが、私が注目する「人類が全く肉薄できていない最たる分野」は、1.偶然事象と、2.意識・霊である。セーガンもドーキンズも科学を信じる人たちだが、彼らが特に書かない科学の無力分野がある。偶然事象だ。科学は、法則性をもって確実に繰り返される事象にしか威力を発揮できない。偶然事象には、ある意味で関心がない。量子力学の分野まで含めて、右になるか左になるかが確率的偶然でしか決まらない事象が多多あるところ、科学はそれを「結果的にそうなった偶然」としか言えない。卑近な例でいうと、自分の顔の左に大きなほくろがあって醜いのを、科学者に何故?と問うても「偶然」としか言わない。偶然の背後には何もないのか? 科学は沈黙している。しかし、偶然事象にも「百匹目のサル」的な不思議な傾向があり得ることも知られている。化学物質の右・左の光学的異性体の合成される偶然的確率が、ある時にがらっと変わるなどという事象も経験されているという。信憑性は分らないが。偶然の背後に、まだ科学の解明していない未知の「場」の作用がある可能性は誰にも否定も肯定も出来ない。神がそのような場を経由して偶然を左右している構図はあり得るかもしれない。それでも、偶然事象の範囲でのことだろうから、神の働きで偶然事象の確率に有意差までが出るようなこととして為されるかどうかは分らない。 

 もう一つはセーガンの3つに関係のある「たましい・意識」の世界だ。 ちょっと長くなるので、ここから次回。 Nat

 

科学と信仰 その2

 セーガン博士の「悪霊にさいなまれる世界」で、彼が大変力を入れて研究・調査しているものに、UFO体験、なかんずく、宇宙人に拉致され身体調査された体験のことがある。セーガン博士の調査では作り話のケースが多いが、中にはその人は本気でそう思い込んでいるというケースも相当ある。しかし、博士の調査で、それが実際にUFOとの遭遇の結果であることが立証されているケースはまだないと言う。それでも、どうしてもUFOの話しが流行るのは、謎があり続けるほうが人間をワクワクさせるからだろうとも言う。それはその通りだろう。しかし、私は宇宙からの使者としてのUFOが実際にあるかどうかについては、まだ権威ある研究機関からの信頼できる結論は出ていないと思っているので、現在のところ結果待ちである。従って、セーガン博士のUFOについての長い論述には、若干辟易とした感がある。 

 それにしても、不思議に思ったのは、米国人にUFO信奉者、しかも宇宙人遭遇経験を語る人が、日本より圧倒的に多そうなことだ。UFO問題に限らない。生物の進化が事実だと思う人は、日本では9割なのに、アメリカでは4割に過ぎない。神なるもの存在を信じる人は、日本で35%、アメリカは95%。この大きな違いは何なのだろうか? 勿論、セーガンの本では日米の違いは論じていない。しかし、アメリカにキリスト教の強い歴史的・文化的な背景があり、日本にはないことは間違いない事実であろう。ヨーロッパのカトリック文化の伝統を継いで、17世紀の米国では魔女裁判も多くあった。日本では考えられないことだ。このように、アメリカ人の精神構造の中に、神こそは真実であるのに、科学は人間が小ざかしく調べものをした結果の小理屈を整理しているに過ぎなく、信仰に水をさす危険なものという視点が根強くあるのであろう。だからこそ、セーガンのような科学者が、800ページにわたる書物を書いて、科学こそは・・ということを主張せねばならないことになる。この辺は、「その1」に書いたとおり、科学と信心とが必ずしも二律背反でない日本人には分らないところだ。 

 さて、次に本論に入ろう。 Nat

 

科学と信仰 その1

 以前このブログで「神は妄想?」と題する記事を11回シリーズで書いた。(20071228日から200815日までの記事。)英国の有名な生物学者であるリチャード・ドーキンズが、「科学とは別に神はある」と主張する神学者やキリスト教原理主義者のことを「世をたぶらかす悪」として痛烈批判して書いた『神は妄想』という力作がある。私のブログ記事は、それに関する私のコメントを整理して書いたものだ。クリスチャンである私ながら、ドグマの固まりの神学者たちに辟易としているドーキンズに対し、気脈としては多いに通じるものがあった。一方で、ドーキンズがいわば「逆のドグマ、科学ドグマ」に陥っているのが残念であった。(詳しくは上記記事ご参照。) 

 私のあの記事から4年半。今度は米国の高名な天文学者カール・セーガン博士(1934-1996)の書いた「悪霊にさいなまれる世界 上・下」を読んだ。セーガン博士は、ドーキンズを更に上回るとも思える博識であり「知の巨人」である。彼もまた、神学者・キリスト教原理主義者や超常現象信奉者などに対して、徹底的な科学的懐疑の目を向けている。しかし、私がセーガン博士に感心したのは、逆ドグマに近いドーキンズと違い、セーガンは超常現象やUFO体験などにつき、非常に詳しく冷静に研究・調査もしていること。また、彼は科学者が、宗教や超常現象を否定しようとする余り、逆ドグマに陥る危険性があることを自覚すると同時に、更には、ナイーブに信じて生きている人を真っ向から否定することで、その人たちの心までを壊してしまうことにも配慮すべきといっている。この点で、ムキになっていたドーキンズよりも一段上の人と思われる。 

 まず感じることだが、ドーキンズやセーガンが、このような大著を書かねばならないのは、米英においては教条主義的な神学者やキリスト教原理主義者、あるいは、UFO誘拐体験者などと、科学者との間で、真っ向から否定しあう対立があるからであろう。これに対し、日本の文化は面白い。日本では進化論を否定するような宗教的原理主義者は極く少なく、アメリカなどと違って「普通の科学的常識」が国民の平均的認識である。しかし、それと、たましいとか、神社仏閣への祈願とか、あるいは多少とも超常現象的なものへの関心などが、日本人の頭と心の中では、特に対立的なものとならないのだ。いわば「別腹」。そもそも、神道だった日本に仏教が来ても神仏混交で両方許容してしまうし、近代のキリスト教も、文化的に取り入れてしまったように、融通無碍の民族だ。科学的常識と宗教的な思いとが、余り矛盾しない。論理を突き詰めることが嫌いな民族性があるので、自分の中で論理矛盾に至らない。超常現象を目の敵にする大槻義彦教授みたいな人もいるにはいるが、ドーキンズやセーガンのような緻密な反論体系をもって大著を表わすというものではなく、もっぱらTVなどでの受け狙いの人だろう。日本の科学者はドーキンズやセーガンのような活動までをするニーズがないのであろう。 

 さて、次回以降、私の感心したセーガン博士が述べていることに、もう少し踏みこみながら、私の思いを改めて述べていこう。  Nat

 

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