♪♪ NATの独り言 (心・ジャズ)

生きていく上で信じてること。大好きなジャズのこと等

2012年08月

原発シナリオ議論の前にあるべき議論 その2

 昨日のこのブログ記事で、原発シナリオでゼロか15%25%かといった選択の論議をやっているが、それよりも、従来の原発計画である45%はもう無理で、どの場合でも半分かそれ以下にせざるを得ないという事の方が、国民の生活にとっても経済にとっても、よほど重大な影響があるという点を書いた。即ち、原発がゼロとか15%とかに関係なく、もう日本では凄まじい超省エネを家庭も企業も強いられることが必須になった訳だし、更に、電力料金が相当上がらざるを得ないことも必須になった。国民としては、原発を何時までにどれくらい減らすという選択の討論会などをしているよりも、先ずは、超省エネと高い電気代の結果、どういう国になっていくのかを想像し、対応に頭をめぐらすべきであろう。原発がなくなっても、毎日の生活の変わりはない。しかし、壮絶なる省エネ義務は我々の生活を大きく変えてしまう。しかし、今のところ、多くの人は、自分の生活は変わりないという前提で、原発がどれくらいないほうがいいかという議論だけをしている。 

 ということで、政府の国家戦略室の3つの原発シナリオの資料で、私が目をむいたのは、原発の部分ではなく、原発カットの結果としての、超絶レベルの省エネが必須という点だ。具体的に政府が課す施策はまだイメージ段階ではあるが、「重油ボイラーは原則禁止」とか「省エネ性能の劣る空調を全部取り換える」「省エネ性能の劣る住宅・ビルの賃貸禁止」などという凄いものが並んでいる。要するに日本中の自動車・住宅・ビル・工場の空調設備やらボイラー類を全部刷新するくらいの話だ。20年間で設備取り換え等の費用に合計80100兆円掛かるという予想を書いているが、それくらいは要る話だろう。しかし、この80100兆円は誰がお金を出すのか? 政府ではないだろう。とすると、家庭や企業が自分で出さざるを得ないことになる。政府はその代わり、省エネでないものにはペナルティーをかけ、省エネにすると税金が優遇されるというような新しい規制・法令を乱発するのだろう。

 この超絶レベルの省エネは、国民や日本経済に何を意味するのだろうか? 毎年5兆円レベルの省エネ対策市場が登場するわけで、関連の機器メーカーや、スマート住宅などの業者にとっては大きな新しいビジネス機会になる。という前向きの気分になってもいいが、むしろその費用を出す国民・企業の負担の方が重いのではないか。もちろん、省エネ投資の結果、エネルギーコストが下がる分だけの投資の回収機会はあるが、どうせ投資効率はそう高くないものになるだろう。むしろ、国民、特に若い層が貧民化してきている日本で、こういう超絶省エネへの支出を強いられるとどうなるのだろう。支出出来ない人には、税金が重くなる等のペナルティーが待っている。やはり、前向きの気分になるより、後ろ向きの気分になる話ではないか。
 

 また、電力料金が相当上がる大問題もある。家庭の負担増もさることながら、前に82日に書いたとおり、これ以上電力料金が上がるとそれが致命傷になる日本のビジネスが多くある。もともと日本の電力料金は韓国などよりも相当高い。それが更に高くなると、日本ではもうビジネスが出来なくなる可能性が高い。そこで、前に書いたとおり、脱・縮原発の分だけ上がる電力料金は、国が電力会社に助成金を出してでも低く保つ必要がある。韓国の電力料金が安いのは、燃料の契約の中身の違いもあるが、何といっても韓国電力という国営電力会社がやっていることで政策的に低料金に出来るのだ。日本も、類似のことをやるしかない。しかしそれだけ税金が要るので、その分は結局また国民の負担になる。でも、日本中から工場や企業が消えていき、雇用が消えるよりもまっしだ。
  

 以上を考えていると、高齢化・少子化、日本企業の競争力の低下で、ただでさえ衰退しつつある日本という国は、これでどうなるのだろう。脱・縮原発で福島事故のような恐怖は減るものの、たぶん、今以上に相当住みにくい国になっていくだろう。しかし、多くの国民にとって、日本脱出は選択肢になり得ない。日本に留まるしかないが、その日本は、原発こそないか、少ない国になるが、経済超低迷、重税、高齢化の上、超絶省エネ義務が襲いかかる、そういう国になるということとも思える。 脱・縮原発の程度とタイミングの議論をする前に、そもそもこの国が向かっている方向を国民にきちんと説明し、皆で覚悟をしてから、そういう議論に入るべきではないか。それを痛感する。違うだろうか? Nat



 


 


 

原発シナリオ議論の前にあるべき議論 その1

 2030年は原発ゼロか、15%か、2025%か。この3つのエネルギー選択シナリオについての議論を経て、これから国家としてのエネルギー・環境戦略策定に入る。各地で行われた公開討論会やその後のアンケート調査でも、ゼロ、15%、2025%の意見は分かれる。今朝の日経によると、案外若い人はゼロでは無理との意見も多いようだ。
  

 私としても、一応、政府の国家戦略室の3つのシナリオの資料にも目を通し、また経団連が危機感を持って出したコメント資料もざっと見た。それで感じることは、原発ゼロか、15%か、2025%かという一見選択肢に見えることの比較議論ばかりしていると、日本にとって決定的になった重大なことを見逃しがちではないかということだ。それは、福島事故以降の日本では、原子力に大きく依存するこれまでの電力・エネルギー計画は最早あり得なくなった、だから、日本の将来において、電力供給・エネルギー供給のとてつもない「不足の大穴」が開くことがほぼ決定的になったということだ。最早、選択余地のない、日本の運命とも言える。つまり、原子力は、現在5千万KWもの発電量を持ち、今後は日本全体の発電量の45%を原子力にしようと思っていたものを、多くても25%以下、つまり実質半分以下にするしか日本には選択肢がないことになったのだ。これは、100KWくらいの大型のLNGや石炭の火力発電所で言うと、それを2030か所ほど新しく作らないと穴埋めが出来ないくらいの「電力不足の大穴」が開くことを意味する。つまり、原発ゼロ、15%、2025%の選択の議論の前に、ただでさえ、衰退しつつある日本という国の経済にとっても国民にとっても存立の基本となる電力供給に、大きな穴が開くことを大前提として覚悟せねばならないということだ。

 今年の夏、関電の大飯原発以外の原発ゼロで、電力供給を乗り切りつつあるので、一般には楽観が拡がっているかも知れない。しかし、この夏は老朽した火力まで動員して応急手当的に何とかつじつま合わせした供給である。私は電力会社や経産省の代弁者にはなりたくないが、ずっとこれだけでは持たないと思う。また中期的には、経済の成長にも備えねばならないし、燃料供給ストップなど不測の事態への予備供給力の必要性も勘案すると、原発25%のケースでさえ非常に厳しいと言わざるを得ない。もっとも「電力の大穴」は絶対確実に起こるわけではないが、相当そのリスクが高い、あるいは、少なくとも何か攪乱・障害要因が発生した場合には電力大不足が発生してしまうという、電力供給について大変脆弱な国になってしまうことはほゞ確実であると懸念する。
 

 しかし、政府の提示しているシナリオでは、どの場合でも電力需給は釣り合う絵にしている。「不足の大穴」などという話は、政府からは全くない。しかし、それを楽観的に信じる前に、政府の国家戦略室の3つのシナリオを良く見てほしい。際立つことは、3つのシナリオとも案外大きな違いはなく、どのシナリオの場合も、電力不足にならないよう、相当無理なつじつま合わせ・数字合わせをしている点で共通しているということだ。

【1】まず経団連が指摘している通り、国家戦略室のシナリオでは経済成長率を1%と置くしか手がなかった。2%などと置くと、電力の大穴が更に広がり、シナリオにならないからだ。

【2】また、3つのシナリオのどの場合でも、省エネが今からなんと更に1922%も進むことを前提にしている。これを原油換算でいうと約8千万Kl/年の省エネ・・と言っても分からないので、計算してみた処、全部電力に換算すると8,600Kwh/年の節約。日本の発電量計が1.2Kwh/年だから、賞エネ19-22%というのは、電力換算で日本の総発電量のなんと7割相当のすさまじい省エネを意味する。(注:省エネは自動車やボイラーなどの燃料の節約が中心だから、電力だけの話ではないが、ここでは求められる省エネのすさまじさを理解するために、電力の換算して書いたもの。)要するに、原発を減らすことの代償は、太陽光発電等よりも、圧倒的に省エネでという話なのである。しかし、そうまで想定しないと、大穴が開くからそう言う話にせざるを得ない。かつ、地球温暖化対策の国際公約も果たせないから、そう書くしかない。しかし、その為、これから20年の間に80100兆円もの省エネ投資をする。その結果、住宅、自動車、工場の全てが超省エネモードに変身することを前提にしている。これでは実現が相当難しいだろう。あるいは無理にやると、日本には住めない、あるいは日本ではもう事業は出来ないということになり兼ねない。

【3】更に、地球温暖化の制約から、前提が明確ではないがLNG・石炭・石油火力の新設については基本的になしか抑制という厳しい制約が前提と見られる。だから、残りの大穴は消去法で、再生エネルギーで苦しくつじつまを合わせた絵にせざるを得ない。原発25%の場合でさえ、日本中の太陽光発電を屋根に乗せられる全ての家である1000万戸に乗せるとか、東京都の面積の1.6倍の場所に風力発電を設置するとかいった実現性に疑問のある想定をせざるを得なかったわけである。
 

 このように、日本が向かって行かざるを得ない電力不足の深刻さは、3つのシナリオ全てに共通だ。それに比べると、3つのシナリオの差は大したことないとさえ言える。例えば、原発25%の場合には、太陽光発電を1000万戸の屋根に乗せるのに対して、原発ゼロだと屋根の強度上無理な200万戸にも屋根を改造してでも追加で乗せるといった程度の違いだ。つまり、「従来の計画(原発45%)」をやめて「3うのシナリオ:縮原発(15%, 25%)や脱原発(0%)」に移行する落差の方が、「3つのシナリオ」の間の違いよりも重大だということだ。3つのシナリオのどれになろうと、エネルギーの大穴を、すさまじい省エネと、太陽、風、あるいは許してもらえるなら火力まで総動員して必死に埋めないと、国民生活も経済も成り立たないということである。誤解してほしくないが、「だから、原発はゼロじゃなく、最低15%くらいにはしましょう」等と言っているのではない。「たとえ原発25%まで許容しても、電力不足は必須で、それを覚悟せざるを得ないだろう」と言っているのである。ただでさえ、経済が衰退し、若者が将来への希望を持てなくなった日本で、更にエネルギー利用における厳しい締め付けが必須となるということだ。しかもそれは、原発の割合に関係なく、どの場合でもそうなるということだ。今回の「国民的議論」なるものの中で、欠けているのは、日本が背負うこととなったこの大きなエネルギーの十字架だと思う。

 福島事故を起こしてしまい、国民に大きな恐怖を与えたのだから、他国で原発建設が続行しても、日本だけは原発依存度を大きく減らすしか国民に選択はなかろう。その結果、エネルギー不足の「重い十字架」を日本が背負うことも仕方がない。しかし、まずその事実を国民がもっと認識できるように、政府はつじつま合わせ、数字合わせの資料ではなく、より実態に即したシナリオを隠さずに提示するべきだ。そして、その上で、もうしょうがないので、開き直って、「超超省エネ国家」(住宅も自動車の工場も超超省エネ)として、人類の最先端を目指すしかないというような国民へのメッセージを発信してもらいたいと思う。     Nat


 


 


 


 


意識とは何か? その3

  結局、私たちの意識は、脳神経の産物だけか? という究極の問いに行き着く。 

 ではまず、夢って何?から。 睡眠中、通常の意識はない。しかし、レム睡眠の際、私たちは、ありとあらゆる奇想天涯な物語の夢を見る。ミミズにもある皮膚への刺激反応から進化した意識だが、夢においては、外界からの刺激はないのに、恐らく脳の上層部が勝手にクオリアを形成し、それを連ねて「意識」を構成する。その脳の部分の働きで、勝手に映画のようなものを創り出しているということだ。しかも、脳の中にはそれを観ている観客の自分がいる一方、脳の別の部分には、映画を創り出している自分もいることになる。脳の上部構造に更にレベルがあるのか? 夢における「自分」ほど不思議なものはない。意識の研究を進めるにも、夢の徹底研究は重要であろう。しかし、現在の科学では、残念ながら夢と脳の関係の研究もまだ進んでいない。でも、夢については、将来、脳の機能として相当説明がつく時が来るような気がする。なんと言っても、意識を脳が支えていることは間違いないのだから、意識の相当な部分は、将来科学が進めば、脳の科学で説明できるようになるだろう。 

 しかし、そうなっても、まだまだ残るかも知れない疑問がこれだ。私たちの、物質である脳を含んだ肉体が死んで機能を停止する。そうすると、これまでの意識は恐らく消える。そこから、臨死体験や死後体験(生まれ変わり体験)で語られる別種の意識にスイッチされる可能性は未知の分野だから、今は置いておこう。ここでは「脳死で意識消滅」としておこう。さて、暫し後、体が腐る前に天才的医師が登場。死んだはずの肉体を蘇生させたとしよう。機能停止していた脳が再度機能を回復する。その時、「意識」、つまり「自分という感覚」は、死ぬ前からの続きで再開するのだろうか? それとも、どこか違った「自分」になるのだろうか?あるいは、全く違う「自分」として新しい出発をするのだろうか? 臨死体験をした人は、そこから「同じ自分」ではあるが、「ちょっと違う自分」になったという人が多い。「自分」の連続性。朝起きると、「自分」は昨晩から連続する。しかし一回死んでも、そうなのだろうか? 

 もっと凄い疑問に移る。 まだ今の科学技術では不可能だが、人間のコピーができるとしよう。ある人が死んだ。しかし、その人のコピーが出来た。コピーは動き出した。脳も完璧。そのコピー人間の意識は、誰の意識になるのか? 死んだ人の意識の続き? もし、コピーを二人作ると、どうなる? 恐らく、「私の意識」が二人出来ることはあるまい。精々片方に「私の意識」が入るか入らないかだろう。となると、どちらかというと、たましい的な「意識」というものが、肉体の脳に宿るという構図で考えたほうが、まだ分かりやすいとも思える。 

 という具合に、本当に我々の「自分という意識」は、我々の脳だけの産物なのであろうか? それとも、極く一部の科学者が実験までしたとおり、何か「たましい」といった科学が解明していない、「脳神経とは別の何か」が脳に宿っているのであろうか? 科学としてそちらの仮説に進むためには、もっと「たましい仮説」の科学的な実証的研究を、逃げずに行ってみるべきだろう。 

 ということで、現代の科学では、「意識」は全く分かっていない。私のような科学の探求と並行して、(宗教的)信仰を持って生きている人間としては、はなはだ不満である。もちろん科学に対しての不満。もっと、意識の科学的研究を進めてもらわねば困る。私の生きている間に、もう少しは、上記に掲げた疑問への答えが聞きたい。でないと、死にきれない。私はそういう人間だ。皆に「私が今一番関心あるのは、意識とは何かということ」というと、よく笑われる。こんなに、私たちの存在の本質に迫る疑問なのに。あなたはどう思う?      Nat

 

 

 

意識とは何か? その2

 7月17日のブログに書いたことだが、ロンドン大学の心理学の教授であるニコラス・ハンフリー博士の著作『ソウルダスト-意識という魅惑の幻想』は、相当難しい本だが、内容はこれまでにないものだ。彼は、私の知る限り、生物の進化の過程でどう意識が発生してきたのかに関する仮説を提起している数少ない学者だろう。それにつき、私流の整理及び表現だが、以下に述べる。 

 前回述べた、ミミズも感じる、体を傷つけられたときの「痛み」という反射反応感覚。まず、神経の中に発生するこの「痛みの電気信号」が、その時だけで消えてしまわず、何等かの理由で、神経をぐるぐる回るようになった。もう痛みの原因となった皮膚への刺激は去っているのだが、神経の中に、「痛みの記録」にあたる情報が暫く活性化したまま残る。そういうことが、次第に「痛み」という感覚に関して脳内にデータベースのようなものを形成していった。そうなると、次に、また新しい痛みが来たとき、「この間と同様の痛み」とか「違う種の痛み」とか分類する神経反応が可能となる。ここからは、視覚での例に話を変えるが、赤いトマトを見た視覚の反応が、見た一瞬後にもグルグル回って脳内に留まっていると、過去の視覚のデータベースと照合して「あの赤い色と同じ」とかいう風に反応できる。更にそうなると、もはや最初に見えたトマトの赤い色から離れて、脳内のデータベースの中にある「ある種の赤い色」という脳内イメージパターンが逆発信した「赤い色」が意識の中でそのトマトの赤い色になる。つまり、あなたが見ていると感じているトマトの赤い色は、脳の下部構造に最初に生じた「赤色の反応」ではなく、あなたの脳の上部構造が生んだ仮想の「トマトの赤い色」だという話だ。このように脳内上部構造に生じる色などの感覚、それを「クオリア」と呼ぶが、意識というのは、このクオリアを連ねたものということになる。 

 しかも、ハンフリー博士は、更にこのようにして生じた「意識」は、その主体に「今自分は生きている。生きていることは気持ちいい。」と思わせるようになり、その意識が、更に生きようとさせる意欲を生じ、進化上の競争優位に働いたという仮説を述べている。 

 これらのハンフリー博士の仮説は、大変面白いし、なるほど感もある。しかし、これは、進化上、ミミズのような単純生物が人のような高等生物に進化していく過程で、神経反応が次第に上部構造を形成していった可能性を仮説として述べているだけである。これを聞いて、今、皆さん一人ひとりが感じている「自分は、ここにいる」という意識が説明できたと思うであろうか。それにつき、更に次回。        Nat

意識とは何か?  その1

 7月17日の当ブログ「科学と信仰 その4」と7月20日のその「番外編」で、意識とは何かについて触れた。今、一般の方々では、科学は既に大概のことを解明し終わり、あとは素粒子や宇宙の彼方のことに迫ればいいだけ・・といった印象の人もおられるかもしれない。しかし、実は身近のことで、最も解明されてない最たるものが、人間の意識のことだ。 

 今の科学で「意識」の何がどう分からないのだろうか? まず、現代科学は生命のことも人間のことも、どこまでも「物質の原理」で説明しようとする。とすると、意識も人間の脳の働きで説明しようとすることになる。 

 体の一部を傷つけられた場合、痛みを感じる。これはミミズでも、体を傷つけられると強く反応するから、どんな動物にもあるものだろう。そのような反射反応の仕組みくらいなら、神経細胞の電気化学反応とかで、一定の説明はつく。しかし、このような痛みなどは、外からの刺激への反射反応の「感覚」であって、それだけでは「意識」ではない。意識は、外からの刺激とは独立して、例えば「この間、俺はあそこで転んで痛い目にあったな。だから、今日は注意して歩こう。」などとアレコレ思う「自分」というものの思い・感覚、自分というものの存在感、それを全て含めたものだ。端的にいうと「俺、今、ここに確かにいるよな」という存在感、これが意識の特徴なのだが、それって何か? これを、物質である脳神経で説明しようとしても、まだそれが全く出来ていないのである。

  そこで、科学者の中には「もしかして、結局、意識とはたましい?」と思う人もいて、人が死ぬ時に、たましいが抜けて、体重が微妙に減るかどうか実験した人もいるようだ。しかしその結果としては、減らなかったという話と、極く微小に減ったという話と両方があるようだが、これはそもそも真剣に実験・研究する人が殆どいないので、何が真実か定かでない。そこで、科学者は、あくまでも物質である脳神経から「意識」に迫ろうとする。 

 まず、「意識」を研究するには「無意識」の研究からという。人間の脳の構造上、例えば目に入ってきた画像は、最初には「無意識」の領域に入り、その後、色々な情報処理を経て「意識」の世界での視覚にまで到達する。私は、実は右目を重症の網膜剥離でやられ、右目の視覚は見るに堪えないデフォルメした像なのである。ところが、脳のエライのは、右目で見えているデフォルメした像を意識の上では消去している点だ。つまり、正常視力である左目の像だけを意識するように情報処理していて、普段は、右は見えているはずなのに意識にはない。しかし、いったん右のデフォルメ像を意識すると、それが見えてくるから不思議だ。これほど劇的でなくても、皆さんも同様だ。目に入った像と、あなたの意識で見えていると思っているものは同じではない。ということから、「意識」は、先ほどの「痛み」といった反射反応の感覚とは違い、脳の上部構造の働きであることが分かる。 

 同じく「無意識」の例だが、夢遊病というのがある。夜、寝ていて全く意識はないのだが、結構ちゃんと外に出て歩いて帰ってきたりする。無意識の世界でも、案外、高等な判断などを、脳が意識せずに「自動的に」しているというわけだ。虫には「意識」があるとは思いにくいが、恐らく人間の夢遊病と似た仕組みで、意識はなくても、非常に高度の情報処理を持って行動を制御していると思われる。 

 以上の通り、脳の働きでいうと、「意識」は、無意識を支配する脳の部分よりも上の上部構造の何らかの働きのようだということまでは分かったのだが、それで、意識を分かったことにはならないだろう。 そこで次回に、もう少し、この点に踏み込む。 Nat

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