私が行っている教会で、時折、子どもたちやお父さん・お母さん向けに聖書からのお話しをすることがあると前にも書いた通りだが、最近したお話しのサマリーをここに書かせて頂く。
与えられた聖書の箇所は「マルコによる福音書10章13-16節」(子どもを祝福する)。聖書に書いてある話はこうだ。人々がイエスの処に子どもたちを連れてきて、イエスに触ってもらい祝福を受けようとした。弟子たちは、それを叱ってやめさせようとした。イエスは弟子たちに憤り「むしろ“神の国”はこの子どもたちのような人のものであり、誰でも子どもたちのようにならないと“神の国”には入れない」と言って、子どもたちを抱き上げ祝福したという話だ。この「子どもたちのような」という意味を、私は昔は「子どもたちのように純真無垢の心」ということかと思ったこともあるが、それは違う。当時のイスラエルの社会では、子どもはまだ神の前に立つ資格がない未熟な人間とされていたのである。大人はユダヤ教の戒律に従い毎日を生きる。その積み重ねの実績がある。更に、大人は神に捧げるための一定の財産も持っている。しかし、子どもは未だ、戒律に従い生きてきたと誇れる実績もないし、捧げるべき財も持っていない。神に評価してもらえるものを未だ何も持っていないので神の前に立つ資格がないという訳だ。
これに対しイエスの言ったことは、驚くべき新しい教えであった。イエスは「神は、人間に実績があるから、捧げものが多いからといって人を愛し、受け入れるのであろうか? 違う、神は人を、実績や捧げものにかかわらず、そのままのその人として愛そうとされるのだ。だから、むしろ、“実績も捧げものもない私でも愛して下さるのですか?”と言って神の愛を信じる子どものような者が、一番神に近く、実績や捧げものを誇ろうとする者は、最も神から遠いのである。」と説いたのである。この話の後に、弟子たちやそこに居た人たちが、この驚くべき教えにどう反応したのかは書かれていない。恐らく、皆唖然としていたのであろう。こんにち、この話をぱっと聞く我々も同じだ。神が、そのままの私をこそ愛して下さるなんて、そんなことがどうしてあり得るのか?と思ってしまう。
しかし、聖書のイエス物語はここで終わるわけではない。物語の終わりで、イエスは自ら十字架の道を歩む。恰も私たちに語りかけているようだ。「神さまが、そのままの貴方をこそ愛し受け入れられるということを、みな、分からないのだよね。そのしるしを求めるのだよね。それでは、私が貴方の代わりに私の命を十字架に捧げよう。私が代わりに命を捧げたからには、もうあなたは何の実績もなく、何の捧げものをしなくても、そのままの貴方が、神さまに受け入れられるのだ。」と。子どもの祝福の場面で、イエスの教えの意味が分からなかった弟子たち・周囲の人たちも、イエスの十字架の業を見た。そして、その後の復活のイエスの姿に触れ、イエスが十字架に捧げた命のゆえに、自分たちには実績も捧げものもないのに、そのままで神に愛され、神の国の一員に迎え入れられることにつき、深く、かつ涙をもって悟ったのである。その人たちが、この聖書の物語を書き、後世の私たちにそのことを伝えようとしたのだ。
そのようなこの聖書の話の中から、イエスが、こんにちの私たちにも語りかける。「あなたがたは神の前に何を誇るのか? 誇るべきものなく、むしろ自己嫌悪したり、もがきながら生きているのがあなたではないか。しかし、私は言う。私が命を捨ててまであなたをそのままで愛したように、神は、そのままのあなたをこそ愛し、受け入れようとされているのだ。あなたはそのことを信じるか。」と。 私は、このイエスの語り掛けを信じ、神さまが、私の実績でも捧げものでもなく、そのままの私を受け入れて下さることを喜びとして生きようと思う。
これが、私がさせてもらった聖書の話だ。これを読んだあなたは何を感じたでしょうか。 Nat