教会では、今日3月31日が、今年のイースター。イエス・キリストの復活を祝う時だ。私はまた、お父さん・お母さん中心の礼拝で聖書の話をする機会があったので、ここにその中身を書いておきたい。
『 新約聖書のマルコによる福音書は、一番最初に書かれたイエス・キリストに関する伝承記録だ。そして、イエスが弟子たちに対して三度にわたり、自分が死刑になり復活するとの予言をしたことが書かれている。予言通りイエスは十字架刑で果てる。しかしその後の記述は、金曜夜に岩の横穴のお墓に一旦葬られ、安息日明けの日曜の朝に、母マリアらが墓穴の中のイエスの遺体に香油を塗りに行った時の話で終わる。マリアらが墓に入ってみると、天使のような若者がいて「イエスは復活し、あなたたちの故郷のガリラヤであなたたちに会われる」と言う。マリアたちは震え上がり正気を失い、恐怖のままそこから逃げた。これで終わりなのである。それの書かれた少し後の時期に、若干の復活の記録が加筆されたが、オリジナルのものでは、恐怖で震え上がったという所で終わっているのである。ちなみに、それより後の時代に書かれた別の福音書では、もっと復活の話が入っている。しかし、マルコの福音書はマリアが恐怖を感じた所で終わっており、それだけを読むと、「えっ何これ?」という感じになる。マルコが何故敢えてそういう記録を残したのかということから、私の話を始める。
初めて復活の知らせを聞いたマリアの反応は、強い恐怖であった。何か自分たちの理解を越えて起ころうとしていることへの恐怖である。我々も、もし人ごみの中で、死んだ筈の人が歩いているのを見たら、その一瞬、嬉しいよりも、背筋がぞくっと寒くなるのではないか。マリアにも同じ反応が起こっていた。他の福音書においては、同様の知らせを聞いた男の弟子たちの最初の反応は、驚愕、疑い、胸騒ぎであったことが書かれている。2000年前の人も、人が復活することなど俄かには信じられず、受け容れることもできなかった。最初に聞くと、まずは恐怖、驚愕、懐疑が先に出て来た。
そのように恐怖したり疑っていた弟子達が、その後、主の復活に出会った体験を熱く語ってやまなくなったのは何故だろうか? まずそれは、やはり、彼らが「復活」と言っている何かとてつもない体験を実際にしたからであろう。復活が実際にどのような現象であったか、今では知るよしもない。しかし、4つの福音書を併せてみてみると、弟子たち・女たちは、それぞれ復活の主との複数回の出会い体験をしているようだ。そして、それは彼らの理解を超える体験であったに違いない。客観的な情報として文章に記録することが難しいような体験、情報として説明しても、とても信じてもらえないような体験であったのだろう。と同時に、彼らは、復活の主と出会う体験の中で、当初の恐れ、戸惑いから変えられていった。「主は復活されて確実に私たちと一緒におられる。これからはいつまでも一緒におられる。」そのことを信じる思いが、彼らを喜びと力で満たし、彼らのたましいを突き動かしていったのである。彼らは、復活がどのような現象であったかを客観的に情報として説明することが出来なくても、彼らは主の復活を強く信じ、主の復活によって力づけられて生きる人になったということだ。だから、彼らがその時以降の人生で、人に伝えようとしたことは、復活の情報ではなく、復活への熱い信仰であったのだ。復活への熱い信仰は、自ら熱く語るしかない。そうやって弟子たちは、復活への信仰を語り始めたのである。
マルコの福音書は、それから30年近く経ち、そろそろイエスに関する文書の記録を残そうという機運になって、ペトロの子分マルコが、それまでの言い伝えを纏めたイエス物語である。そのマルコによる記録では、復活体験の前段階、女たちの恐怖の所までを、復活体験への「背景となるあらすじ」として纏めたものだ。そこからの、信じられないような復活の体験は、それまでと同様、あくまでも弟子たちが、そのことへの熱い信仰として語るしかないものであったのだ。それが、マルコの福音書が女たちの恐怖の所までで終わっている理由というのが、私が到達した理解である。
さて、現代の私たちは、そのイエスの復活ということに対して、どう反応すれば良いのだろうか。弟子たち、女たちも、復活の知らせに対し、俄かに信じることが出来なかった。それと同じように私たちも、如何にイエスが“神がかった人”であったとしても、復活したことまでは俄かには信じられない。一方で、弟子たちはその後突然、復活への信仰を熱く語ってやまない集団に変わっていった。しかし、それは2000年前の人のことである。2000年後の私たちは、やはり、俄かには信じられない状態で終わるしかないのであろうか。マルコによる福音書が突然そこで終わっているように、そこで終わるしかないのであろうか。
それは違うと思う。弟子たちが復活への信仰を熱く語るのに触れた人は、復活の中身は分からなくても、弟子たちの復活への信仰に熱いものを感じたのである。そして、それほど弟子たちを喜びと力で満たすようなものなのであれば、自分たちも復活なるものを信じて生きようと思うようになっていったのである。このようにして、主の復活は、情報としてではなく、信仰として次々にバトンタッチされ伝えられていった。この信仰のバトンタッチは、ついには2000年の後の日本にも伝わってきたのである。
私は、復活のことを父と母から伝えられた。若い頃、そんなことは科学的にもあり得ないとずいぶん考えたものだ。女たち・弟子たちの最初の反応と同様に。そして、今も私は科学的には復活のことを立証も説明も出来ない。丁度、マルコが復活の文章を書かなかったように。しかし、父と母が主の復活への信仰によって突き動かされて生き、そして死んでいったのに触れた私も、何時しか、その信仰を受け継いでいることに気がついた。私も、2000年前から順次バトンタッチされてきた復活への信仰を受け、変わってきたのだと思う。そして今度は、皆さんにその信仰を伝えようとしている。
今日、この話を初めて聞いた人は、そういう話をする私に出会ったのが、復活への信仰のバトンタッチの始まりかも知れない。皆、最初に聞いた時は俄かに信じられなかった。しかし、信じて生きた人の信仰に触れる中で、順次変えられてきたのだから、あなたにも、順次バトンタッチされてきた復活への信仰が、今伝えられようとしているのだろうと私は信じたい。そして、弟子たちが、どうしても自ら熱く語って伝えたいと思った主の復活のことを、あなたも信じ、それによって強められ、変えられて生きる人になることを祈ってやまない。 』
Nat