♪♪ NATの独り言 (心・ジャズ)

生きていく上で信じてること。大好きなジャズのこと等

2013年03月

イースター; 熱い復活信仰の話・・

教会では、今日3月31日が、今年のイースター。イエス・キリストの復活を祝う時だ。私はまた、お父さん・お母さん中心の礼拝で聖書の話をする機会があったので、ここにその中身を書いておきたい。 

『 新約聖書のマルコによる福音書は、一番最初に書かれたイエス・キリストに関する伝承記録だ。そして、イエスが弟子たちに対して三度にわたり、自分が死刑になり復活するとの予言をしたことが書かれている。予言通りイエスは十字架刑で果てる。しかしその後の記述は、金曜夜に岩の横穴のお墓に一旦葬られ、安息日明けの日曜の朝に、母マリアらが墓穴の中のイエスの遺体に香油を塗りに行った時の話で終わる。マリアらが墓に入ってみると、天使のような若者がいて「イエスは復活し、あなたたちの故郷のガリラヤであなたたちに会われる」と言う。マリアたちは震え上がり正気を失い、恐怖のままそこから逃げた。これで終わりなのである。それの書かれた少し後の時期に、若干の復活の記録が加筆されたが、オリジナルのものでは、恐怖で震え上がったという所で終わっているのである。ちなみに、それより後の時代に書かれた別の福音書では、もっと復活の話が入っている。しかし、マルコの福音書はマリアが恐怖を感じた所で終わっており、それだけを読むと、「えっ何これ?」という感じになる。マルコが何故敢えてそういう記録を残したのかということから、私の話を始める。 

 初めて復活の知らせを聞いたマリアの反応は、強い恐怖であった。何か自分たちの理解を越えて起ころうとしていることへの恐怖である。我々も、もし人ごみの中で、死んだ筈の人が歩いているのを見たら、その一瞬、嬉しいよりも、背筋がぞくっと寒くなるのではないか。マリアにも同じ反応が起こっていた。他の福音書においては、同様の知らせを聞いた男の弟子たちの最初の反応は、驚愕、疑い、胸騒ぎであったことが書かれている。2000年前の人も、人が復活することなど俄かには信じられず、受け容れることもできなかった。最初に聞くと、まずは恐怖、驚愕、懐疑が先に出て来た。 

 そのように恐怖したり疑っていた弟子達が、その後、主の復活に出会った体験を熱く語ってやまなくなったのは何故だろうか? まずそれは、やはり、彼らが「復活」と言っている何かとてつもない体験を実際にしたからであろう。復活が実際にどのような現象であったか、今では知るよしもない。しかし、4つの福音書を併せてみてみると、弟子たち・女たちは、それぞれ復活の主との複数回の出会い体験をしているようだ。そして、それは彼らの理解を超える体験であったに違いない。客観的な情報として文章に記録することが難しいような体験、情報として説明しても、とても信じてもらえないような体験であったのだろう。と同時に、彼らは、復活の主と出会う体験の中で、当初の恐れ、戸惑いから変えられていった。「主は復活されて確実に私たちと一緒におられる。これからはいつまでも一緒におられる。」そのことを信じる思いが、彼らを喜びと力で満たし、彼らのたましいを突き動かしていったのである。彼らは、復活がどのような現象であったかを客観的に情報として説明することが出来なくても、彼らは主の復活を強く信じ、主の復活によって力づけられて生きる人になったということだ。だから、彼らがその時以降の人生で、人に伝えようとしたことは、復活の情報ではなく、復活への熱い信仰であったのだ。復活への熱い信仰は、自ら熱く語るしかない。そうやって弟子たちは、復活への信仰を語り始めたのである。 

 マルコの福音書は、それから30年近く経ち、そろそろイエスに関する文書の記録を残そうという機運になって、ペトロの子分マルコが、それまでの言い伝えを纏めたイエス物語である。そのマルコによる記録では、復活体験の前段階、女たちの恐怖の所までを、復活体験への「背景となるあらすじ」として纏めたものだ。そこからの、信じられないような復活の体験は、それまでと同様、あくまでも弟子たちが、そのことへの熱い信仰として語るしかないものであったのだ。それが、マルコの福音書が女たちの恐怖の所までで終わっている理由というのが、私が到達した理解である。 

 さて、現代の私たちは、そのイエスの復活ということに対して、どう反応すれば良いのだろうか。弟子たち、女たちも、復活の知らせに対し、俄かに信じることが出来なかった。それと同じように私たちも、如何にイエスが“神がかった人”であったとしても、復活したことまでは俄かには信じられない。一方で、弟子たちはその後突然、復活への信仰を熱く語ってやまない集団に変わっていった。しかし、それは2000年前の人のことである。2000年後の私たちは、やはり、俄かには信じられない状態で終わるしかないのであろうか。マルコによる福音書が突然そこで終わっているように、そこで終わるしかないのであろうか。 

 それは違うと思う。弟子たちが復活への信仰を熱く語るのに触れた人は、復活の中身は分からなくても、弟子たちの復活への信仰に熱いものを感じたのである。そして、それほど弟子たちを喜びと力で満たすようなものなのであれば、自分たちも復活なるものを信じて生きようと思うようになっていったのである。このようにして、主の復活は、情報としてではなく、信仰として次々にバトンタッチされ伝えられていった。この信仰のバトンタッチは、ついには2000年の後の日本にも伝わってきたのである。 

 私は、復活のことを父と母から伝えられた。若い頃、そんなことは科学的にもあり得ないとずいぶん考えたものだ。女たち・弟子たちの最初の反応と同様に。そして、今も私は科学的には復活のことを立証も説明も出来ない。丁度、マルコが復活の文章を書かなかったように。しかし、父と母が主の復活への信仰によって突き動かされて生き、そして死んでいったのに触れた私も、何時しか、その信仰を受け継いでいることに気がついた。私も、2000年前から順次バトンタッチされてきた復活への信仰を受け、変わってきたのだと思う。そして今度は、皆さんにその信仰を伝えようとしている。 

 今日、この話を初めて聞いた人は、そういう話をする私に出会ったのが、復活への信仰のバトンタッチの始まりかも知れない。皆、最初に聞いた時は俄かに信じられなかった。しかし、信じて生きた人の信仰に触れる中で、順次変えられてきたのだから、あなたにも、順次バトンタッチされてきた復活への信仰が、今伝えられようとしているのだろうと私は信じたい。そして、弟子たちが、どうしても自ら熱く語って伝えたいと思った主の復活のことを、あなたも信じ、それによって強められ、変えられて生きる人になることを祈ってやまない。 』       Nat

 

 

TPPって本当は愚かなのか?

 有名な元大蔵官僚で「ミスター円」と言われる榊原英資氏が、嘲るような言い方で、盛んに「TPP参加は愚か」と主張している。 

 彼の主張はこうだ。

TPPは米豪のアジアの成長取り込みだから、頼んでまで入れてもらう必要はない。
②日本政府は交渉超下手だから米国にやられるだけ。例えば混合医療入口に皆保険を崩される。
③日本は既に十分開国しており、米豪と違い既にアジアに食い込んでいる。

 これに対する私の反論は以下の通りだ。

①:米豪同様に日本もアジアの成長を取り込もうとしている。TPPはアジア圏での世界標準になっていく可能性が高い。だから、榊原氏のようにタカを括って参加しないと、いざTPPがアジア圏の貿易・投資・サービスの標準になった場合、それに対応できていない日本は大きく損をする。また、日本の交わしているEPAは数だけは結構あるが、金額的カバー率では低く(注:韓国35%、日本18%)、実は日本はEPA/FTAで遅れている。

②:確かに日本人は交渉下手。榊原氏は「タフネゴシエーター」と呼ばれたくらいだから、自分が出て行かない限り上手くいかないと言っているのだろうが、そう皮肉っていても始まらない。また混合医療は国民にとりプラスも多いし、混合医療の容認と皆保険の維持は両立する。榊原氏は医師会などそ利権守旧派が為にする議論をそのまま借りて言っているだけだろう。

③:確かに、こと関税では、一部農産物を除いて日本は鎖国的でない。しかし、それでも異常に高い一部農産物関税を正常化することでTPPに参加し、見返りにアジアへの輸出・サービス・投資の振興を狙うという話である。(米と乳製品も中期的には関税が低減していくしかなかろうが、その期間は補助金で時間稼いで、業態転換していってもらうことになる。)また、アジアに対する日本と米国の食い込み度合だが、恐らくマクロ統計(例えば投資総金額とか投資先数とか工場・店の数等)では日本の方が多少進んでいるという数字があるかも知れないが、そもそも米国は日本がまるで出れていない欧州・中南米・インドに大きく食い込んだ上でアジアもモノにし、世界制覇をしようとしているのに対し、日本には始めからアジアしか残っていない。だから、榊原氏のように「日本は既にアジアに食い込んでいるから大丈夫」等とタカをくくるのは危険極まりない。 

 榊原氏はTPPをマジメに考える人を嘲け笑い、そういう論調の本を売って楽しいのかも知れないが、彼の嘲るようなコメントは、決して国益にならないと思う。  Nat

●3月26日加筆: 
某評論家が「TPP亡国論」なる本を出したようだ。読まないでコメントして悪いが、評論家がTPPで売れる本を出すとすると「亡国論」だろう。「TPPで興国しよう」では面白そうじゃない。TPPの交渉もこれからだし、参加後に実際どうなるか不透明だから、今ならどんな内容の本でも書ける。となると、「国民皆保険が崩壊するぞ!食の安全が犯されるぞ!」等という本の方が書きやすいし、良く売れる。だからTPPの本は専ら、そういう内容になる。本当は、今一番大事な論評は「TPPに参加しないことのリスク」(日本がどうジリ貧になるか)なのだが、そういう本は書きにくいし、書いても売れない。ということで、広告してる本は余り読まないでもいいかも。  Nat

ペトロとイエスのまなざしのお話し

 今は、キリスト教の教会では、受難節と言って、イエスが十字架への道を歩んだことを想う時。私の行っている教会のお父さん・お母さんを中心とした礼拝で、それに関連する聖書の個所からのお話しを、先日私が担当した。その話をここに書いておきたい。 

 ペトロとかペテロとか呼ばれるイエスの弟子の筆頭格の人がいる。後に聖ペトロと呼ばれ、今話題のローマカトリックの初代法王と見做されることになる人物だ。この人は元々、イスラエルの北部田舎ガリラヤで漁師をしていた。それがある日、初めて会ったイエスに「私に着いてきなさい」と声を掛けられ、着いて言って弟子になってしまった人だ。おっちょこちょいで弱い。 
 マルコによる福音書の14章に、このペトロの有名な物語がある。それはイエスと弟子らが最後の晩餐をした木曜の晩。食事の後、イエスはペトロらに言う「あなたたちは、私につまずく」と。しかしお調子者のペトロは「私だけは大丈夫」という。そこでイエスは「あなたは、今から早朝に鶏が2度鳴くまでに、3度私を知らないと言うだろう」と言うが、ペトロは「たとえ、私があなたと一緒に死ぬことになっても、あなたを知らない等とは決して言いません。」と大見得を切る。 

 その直後、イエスを逮捕する兵隊が来る。イエスは既に覚悟の上で甘んじて逮捕されるが、ペトロらは皆逃げてしまう。イエスは、ユダヤ教の大祭司の家に連行され、その晩のうちに一方的な取り調べで死刑を宣告される。ペトロは、遠くからイエスが連行されるのを追いかけ、民衆に紛れて大祭司の家の庭でイエスがどうなるかの様子を窺っていた。ところが、大祭司の女中が「あれ、この人も逮捕されたイエスの仲間です」と騒ぎ出し、ペトロはそれを否定。そこで鶏が一回鳴く。女中がなおも騒ぐのでペトロは二度目の否定。ところが、皆が「そういえばお前は・・」と言い出したので、ペトロは慌てて「そんなイエスなんてクソ野郎のことは知らない」とかまで言って三度目の否定。その瞬間に鶏が又鳴いた。そこで、ペトロはイエスが「鶏が二度鳴くまでに、あなたは私を三度知らないと言うだろう」という言葉を思い出し泣き崩れる。 

 この物語が書かれたのは、このことがあってから、30年ほども経ち、ペトロは既に、エルサレム教会の初代牧師になっていた頃だ。そんな偉くなったペトロの、このような不名誉なカッコ悪い話を、どうして人々が記録に残そうとしたのであろうか? それは、紛れもなく、ペトロ自身がこの出来事こそを後世に伝えたかったからだ。ペトロにとっては、この出来事から始まる暫くの十字架のイエスとの係わりこそが、その後の彼を大きく変える決定的なものとなったのだ。だから何があっても、そのことを伝えたかったのだ。 

 結局、自分が逃れるためにイエスをののしることまでしてしまった自分。イエスの予言を思い出した瞬間、ペトロは最悪の自己嫌悪に陥った筈だ。そしてその時、彼は心の中で、自分を見つめるイエスを感じたに違いない。そのイエスの目つきはどうだったであろうか。「だから、言ったでしょ!」的な人を刺すなまなざしではない。それは、恰も彼に対し「ペトロ、私はそんな弱いあなたを、その弱さのゆえに心から愛するのだよ」と言わんばかりの、慈しみに満ちたまなざしであった違いない。ペトロは、そのようなイエスのまなざしを心に感じて泣き崩れたのである。 

 その金曜の朝、イエスは死刑場に連行され、9時には十字架にはりつけになる。遠くからそれを見ていたペトロは何を感じていただろうか。前の晩の逮捕の時、むしろダメ人間の自分こそが逮捕されるべきが、罪もないイエスが自分らの代表で十字架で苦しんでいる・・・それを泣きながら見ていたに違いない。しかし同時に彼は、イエスが十字架の上からなお「いいんだよ。これは私の役割だから」と言わんばかりに微笑むまなざしを心で感じていた筈だ。そして3時にイエスは動かなくなる。3日目の日曜日以降、ペトロは復活のイエスに出会う。心の中で感じていたあのイエスのまなざしを、今いちど、はっきり受けたのだ。そして、これからは、目には見えなくても復活のイエスが、ずっとそのまなざしを注ぎ続けてくれることを彼は確信したのである。そのようなイエスのまなざしによって、ペトロは変えられて行く。エルサレム教会のリーダーになり、究極的にはローマで十字架刑を甘んじて受けたと言われる「聖ペトロ」に変えられて行ったのである。 

 私たちも弱く転び、自己嫌悪もする。そのような私たちにも、ペトロに注がれたと同じイエスの慈しみのまなざしが注がれている。それに気が付いた私たちも、ペトロと同じように、イエスのまなざしによって強められ変えられていくのである。そして、誰もが、その、イエスの愛のまなざしを受けるべく招かれている。それを信じ受け容れ、イエスのまなざしによって変えられ支えらえて人生を歩む者となろうではないか。 

 これが、私のお話しししたこと。読んで下さり、有難う。 Nat

日本は農業で世界に打って出れるか?

 「TPPで日本の農業は壊滅する」と、農協を筆頭とする守旧派の声が甲高い。


 一方、実は日本は農業大国であるなどという意見もある。2年前に「月刊農業経営者」副編集長の浅川氏が「日本は世界5位の農業大国」という本を出したのが、その後も話題になっている。本当に世界5位? 浅川氏は中国、米国、インド、ブラジル、日本、フランス・・と書いているが、他で調べると実際には日本より上にインドネシア、アルゼンチン、トルコ、ドイツ、スペイン、ウクライナ等がいて金額で13位、数量で17位くらいらしい。しかし、先進国の中では、日本は、米国/フランス/ドイツと並ぶ農業大国であることは間違いない。


 そもそも、漁業と違い、農業は自分で計画し自分で育てるので、日本のお家芸である「モノ作り」の伝統が生きている産業だ。先進国の農業は既に科学技術の塊りだが、日本の技術レベルは非常に高い。そして、日本列島の緯度と気候が様々な農産物の育成に適している。しかも、国土が狭いことの裏返しで高度の物流ネットワークが新鮮な産品の全国配送を可能としている。農家当たりの農作地面積はダントツに狭いが、それなりに頑張っているということだ。


 そして、浅川氏の本で私を含めて多くの人が気付いたこととして、日本の食糧自給率のまやかしがある。農水省は1983年以降、自給率を、数字が低く見えるカロリーベースのみで発表するという陰謀をしている。カロリーでは39 %位の計算になる。しかし、金額ベースでは69%位。しかも、日本は食べ物の廃棄が多く、4分の1は捨てられる。これを除外して、実際に胃袋に入った食糧の自給率にすると、カロリーで53%、金額で92%になる。つまり、バルキーでカロリーのある大豆・小麦といった穀物は輸入しているものの、日本人は専ら日本で作られた高品質で新鮮な農作物を食べているわけである。


 それがTPPで域内に日本の農産物を関税なしで自由に出せるとなると、思った以上に日本が農業輸出大国になるポテンシャルがあるというのが浅川氏らの意見である。米、野菜・果実など。しかし、これは飽く迄も「ポテンシャル」(潜在的可能性)に過ぎない。何故なら、現状の日本農業では制度的に「守る農業」になっており、「攻めの農業」になっていないからだ。がんじがらめの農地法、農業法人への過剰規制、関税・補助金漬け、農家を金融・流通で支配するJA(農協)の後ろ向き体質。これらのため、高齢農家が狭小農地にて何から何までJA支配下で細々と営んでいるのが現状。これを、農業への企業経営参加を可能とし、耕作地の大規模化、そしていわゆる6次産業化(一次産業の農業に、二次(製造業)の手法、三次(金融・流通)の手法を結合)する農業の現代化・未来化。これにより、農業は日本の今後の大きな成長産業になる可能性があるということだ。安倍自民党内閣の産業競争力会議でも、この点が重視されている。ただし、真向から自民党の票田のJAとぶつかるので、実現はおぼつかないが。


 私は個人的には農業との接点が乏しかったが、もし農業が日本の産業活性化の軸の一つになれるなら素晴らしいと思う。ガンバレ日本!    Nat 


 ●追記、 上記に関連する、以下の東大の先生の意見文があった。確かに、農業の輸出ビジネス化は輸出大国オランダ同様、野菜・畜産が中心で、米の耕作地大規模化は優先順位が高くないのかも知れない。いずれにせよ、攻めの農業への転換に期待したい。 Nat 

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/37299


 


 


 






日本の産業再生なるか??

 アベノミクスで円安・株高と、経済再生へのムード作りは一応出来た。

 ここからの成長戦略だが、無駄な道路・橋作りは論外であるが、私は、産業競争力会議の中身に注目している。中身が全て公開されているが、民間経済人中心のせいか、私の思いに非常に近い。日本の産業がモノ作り力・技術・品質・サービスの強味を持ちながら、衰退に向かっているのは原因があるからだ。

(1)いわゆる「六重苦」の中で本質的問題であった円高は是正中だが、世界最悪レベルの法人税率と電力コストと、地域経済連携の遅れは未解決。
(2)事業者数過多、負け組み保護で産業が新陳代謝されない体質。
(3)新規事業を阻む規制の緩和度で後進国。
(4)英語力世界最下位に象徴される国際人材後進国。
(5)IT普及の後進国(政府・医療等)。
(6)イノベーションを阻む省庁縦割り・産学連携体制の弱さ。

 これらの問題への解決策も議論されている。今度そこれがどこまで実現するか着目しつつ、一経済人として出来ることはしていきたい。     Nat

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