♪♪ NATの独り言 (心・ジャズ)

生きていく上で信じてること。大好きなジャズのこと等

2013年07月

参議院選挙 - 原発問題は・・・?

 参議院選挙の原発に関する各党政策では、自民党だけが再稼働派で、他は原発ゼロを目指す。私自身は前から「原発の安易な再稼働は絶対反対、しかし、原発ゼロではなく、原発は“やり直し”だ」と言っているので、自民党の政策も他党の原発ゼロ政策も、どちらも問題と思っている。 

 先ず自民党の再稼働だが、規制委員会の新基準は飽く迄も“当座”のものだ。取り敢えず、津波への壁とか非常電源とか原子炉周辺の対症療法の基準を決めたが、炉心の根本改善と、事故時の人的対応の不備の改革は先送りだ。炉心はBWRのベント導入を例として挙げているが、電力なしで自律的に冷却される仕組み等が既に世にあるのを取り入れることは言ってないし、水素爆発の根本的対策等もまだだ。また、事故時の人的対応の不備は、規制委員会では原発のハードの規制が中心ということで、実質放棄しているとも思える。福島の事故後の対応の反省に基づいた各電力の人的対応が大幅に改革されたという話は聞かない。そこで、安全基準は、継続的に見直しさせていくことが必要なのだが、自民党ではそうなるまい。

 一方の他党は情緒的に「もう原発はイヤ」の与論への迎合で「原発ゼロ等」と言っているが、本気でその場合の諸施策を考えたふしはない。まず:

1.使用中の核燃料という超危険物質(今はプールで冷却して使用再開に備えている)の処理という難題に目をそむけている。

2.原発ゼロの場合のエネルギー政策が皆無である。元々世界一高い電力コストが更に大きく高くなるのと、温暖ガス規制も考えると拷問並みの省エネ義務が国民を襲う。

3.今後、隣国中国では原発が乱開発されるが、日本では原発技術者が廃業だから、中国の事故防止に日本として実質的に技術貢献することを放棄することになる。だから、中国の原発が爆発して放射能物質が大量に日本に流れて来るリスクへの対応を放棄することにもなる。 

 ということで、再稼働も、原発ゼロも、両方ダメだが、これは所詮長い戦いだから、今回の選挙としては論点ではあるまい。経済再生こそが主論点だろう。   Nat

苦難・・神さま、これ何の意味?

 昨日、私が行っている教会のお父さん・お母さんたちを中心とした礼拝で、私が担当した聖書の話から。 

 新約聖書に、「使徒言行録」という初期のクリスチャンたちの活動記録の部分があるが、その8章に、初期クリスチャンへの大迫害の話がある。復活後のイエス・キリストは暫くして見えなくなったが、その後、首都エルサレムに集まっていた弟子たちには「聖霊」が下り、彼らは力に満ちた。それでエルサレムだけで数千人がクリスチャンになり、その中にはユダヤ教の司祭までいた。そこで危機感を持ったユダヤ教の指導者たちは、クリスチャンに対する大迫害を開始。クリスチャンの男女をかたっぱしから逮捕して牢屋に入れたのである。そこでクリスチャンたちは、エルサレムから逃げざるを得なかった。西へ、北へ。追手の手を逃れて、イスラエルより外の小アジア(トルコのあたり)まで逃げて行ったものも多かったようだ。 

 神がこの世を全て統べたもうとすると、折角、クリスチャンになった数千人を、このような迫害の中に置くとは、どういうことなのであろうか。実は、後の世からこれを振り返ると、この時の大迫害、大逃亡がきっかけとなり、キリスト教が小アジア、そしてローマにまで一気に拡がっていくことになったという歴史的事実があることを知る。逆に、この時の大迫害がなければ、もしかすると、キリスト教は今でも狭いユダヤ教の一派に過ぎなかったかも知れないのである。このように、後世の我々からすると、まさにこの時の大迫害こそは、神の深い「み心」、神の大きなご計画の中で起こったこととも思えるのである。 

 しかし、大事なことはむしろ別の点にある。迫害のさなかにあったクリスチャンたちは、勿論、「後の世からすると、この時の迫害こそが大きな神のご計画の中で起こったことと思えるようになる」等ということは、全く知るよしもない。深いご計画の中身は全く分からないまま、とにかく、迫害の中で恐れおののき、逃げ惑ったのである。むしろ、彼ら・彼女らも先ずは「神さま、どうしてこのような迫害に会わなければならないのでしょう?これはあなたの“み心”でしょうか? あなたは、こんなに苦しむ私たちのことをご存じでしょうか?」等と疑問に思ったことであろう。しかし、結局、彼ら・彼女らは、その疑問から「神さま、あなたのどういうご計画なのか分かりませんが、これもあなたのなさっていることと信じていいのですね?信じて、ついていっていいのですね?」という信仰に変えられていったに違いないと思う。なぜなら、使徒言行録8章には、それでもクリスチャンたちは、逃亡先で福音を語り、イエスキリストのことを述べ伝えたとあるからである。彼ら・彼女らは、苦難の中でも、その苦難がどういう意味か分からないままで、苦難をもそのまま、神のご計画の中の出来事として受け入れ、それを信じて生きたということだ。この点こそが、聖書が今日、私たちに語りかけていることだろう。 

 私たちもこの世で、「もしこれが神さまのされていることなら、その意味・趣旨は何?」と疑問に思えるような苦難・苦境に引き込まれることが多い。あれこれ、意味付けを考えても分からない。場合によっては、そこで神への不信に陥ることもあるかも知れない。 

 私は20数年前、オーストラリア駐在の際、ある日、突然、右目が重症の網膜剥離となり、右目の正常視力を喪失した。それ以来片目で、遠近感も喪失した。「それも、Natさんが、身体障碍の人とかの気持ちが分かるようになって、優しい心になれるように神様がされたのではないでしょうか?」等という人もいた。しかし、不思議にも、私には、そのように「神のみ心への詮索」は全くする気がなかった。何故か神さまが、「今度は片目のNatになって生きていきなさい。それが私の決めたNatへの愛の物語のシナリオ展開なのだから」と私に言っているとしか思わなかった。これからは、神さまの愛されるのは、片目のNat。ならば、もう両目のNatの戻ろうとするまい。これからは、神さまの決めて下さった片目のNatとして、神さまの愛のシナリオ展開をわくわくドキドキ読み進もうじゃないか。本当にそう思った。それ以来ずっと、そうやって生きている。今だに、なぜゆえ神様が片目を決められたのか全く分からない。分かる必要もない。「Nat物語」のテーマが私への愛であることさえ分かっていれば、シナリオライターの神にいちいち趣旨を聞くこともない。そう思う。 

 多分、迫害にあった初期クリスチャンたち以来、クリスチャンは皆、そういう信仰をもって生きてきたに違いない。そして、この聖書の個所からの今日この話を聞いた人も、これからそういう生き方をすることに招かれているのだと思う。 

 以上が、今回の私の話でした。如何でしょうか。Nat

 

 

 

 

 

 

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