この間の日曜、教会のお父さん・お母さんたち中心の礼拝で、私が担当した「聖書からのお話し」。使徒言行録なる、イエス様なきあとの初期クリスチャンたちの言動の記録がある。その4章に驚くべきことが書いてある。初期クリスチャンらが皆、財産を売ったお金を持ち寄り、皆で共有したとある。そんな記事を読むと、どこぞの新興宗教みたいで、教会に来はじめた人も、「えらい所に来てしまったかも」と思うかも知れない。しかし、実は、その後に別の記事もある。同じクリスチャンでも、財産を売ったお金を全部持ってきたと言ったのが、実はゴマカシで、売ったお金の一部だけだった夫婦の話だ。ということはどういうことかというと、初期クリスチャンに、「聖霊」と呼ばれた、神さま・イエスさまからの強い霊の力が宿ったと書かれているが、聖霊が宿ったクリスチャンは、神がかった行動をした面もあるが、生まれながらの人間のサガのままの面も共存していたことになる。
ここに聖書・キリスト教の核心がある。私たちの生まれながらの人間性は、お金をゴマカしてでも一人占めしたいほどに利己的だったり、狭い心でしかなかったりする。しかし、神さまが、そのような私たちを創られたからには、生まれながらの私たちも「神さまの作り損ねの作品」ではない。神さまは、そのままの私たちを深く愛し、まずはそのままの私たちを「よし」とされているのだ。しかし、神さまはそれだけに留まらず、「生まれながらの私たち」という器に、「イエス様のたましい」である「聖霊」を宿らせて下さって、「生まれながらの私たち」が新しい生き方も出来るようにして下さっているということだ。つまり、聖霊は、元々の私たちに憑りついて、私たちを元の人格とは違う人間に変質させてしまうということではない。元々の私たちには、信じる自由も、信じない自由も与えられ、元々の私たちは、どんなに狭い心の者であっても、100%尊重され愛されている。その上で、神さまは、新しい命の息吹き、新しい生き方のエネルギー源として、聖霊をプレゼントして下さるということなのだ。それが使徒言行録から読み取れることだと思う。
さて、私ことNatは、生まれながらには、相当利己的人間と思う。通勤電車の中で、一旦席が空いて座ったら、歳とったオバアサンが乗ってきても、一瞬も二瞬も寝たふりをしようかと思ってしまう人間だ。私という人間の「元々の素材」はそういうものだ。しかし、私もクリスチャンだから、そんな素材の私にも、イエス様のたましい、聖霊が宿っているのであろう。そして聖霊は、私という素材に宿りつつ、私を少しづつ、神さまの方向に向かって歩む人間に新たに作り変え続けているのだろうと思っている。
最近、近くの中山の辺で、踏切りに老人を救いに飛び込んで犠牲死された女性のことが報道されている。私がその場にいたらどうか? 生まれながらの、元の素材のNatでは、飛び込むことは考えられない。自分ばかりが可愛いからだ。しかし、私には聖霊が宿されている。とすると、もしかして、神さまが「今こそ」と思われる時、私は思いがけない行動に出て、その女性のように踏切に飛び込む勇気が与えられるかも知れないと思う。聖霊なしのNatでは絶対ないが、聖霊の働きで、そんなNatでも、思わぬことも出来るNatになれるかも知れないというほうが嬉しい。そう思う。
今月、お父さん・お母さんの礼拝では「みなが共に生きる」というテーマを与えられている。しかし、それは、生まれながらの私たちが尊重しあうというだけではないだろう。今日は、聖書から、生まれながらの私たちの一人一人、神さま・イエスさまを素朴に信じる時、皆、元の素材の器に、新しい生き方のための聖霊を宿してもらえるということを読みとった。私たちが教会で共に生きるというのは、そのように、皆、生まれながらの器に新しく聖霊を宿してもらい、新しい生き方に向かう者同士として、共に生きるということだと思う。そして、今日のこの話を聞いた一人ひとり、みな、そのような新しい生き方に招かれているのだということを信じ合いたい。・・・・私がしたお話しはこういうお話だった。 Nat