♪♪ NATの独り言 (心・ジャズ)

生きていく上で信じてること。大好きなジャズのこと等

2013年10月

元からの自分、新しい自分

 この間の日曜、教会のお父さん・お母さんたち中心の礼拝で、私が担当した「聖書からのお話し」。使徒言行録なる、イエス様なきあとの初期クリスチャンたちの言動の記録がある。その4章に驚くべきことが書いてある。初期クリスチャンらが皆、財産を売ったお金を持ち寄り、皆で共有したとある。そんな記事を読むと、どこぞの新興宗教みたいで、教会に来はじめた人も、「えらい所に来てしまったかも」と思うかも知れない。しかし、実は、その後に別の記事もある。同じクリスチャンでも、財産を売ったお金を全部持ってきたと言ったのが、実はゴマカシで、売ったお金の一部だけだった夫婦の話だ。ということはどういうことかというと、初期クリスチャンに、「聖霊」と呼ばれた、神さま・イエスさまからの強い霊の力が宿ったと書かれているが、聖霊が宿ったクリスチャンは、神がかった行動をした面もあるが、生まれながらの人間のサガのままの面も共存していたことになる。 

 ここに聖書・キリスト教の核心がある。私たちの生まれながらの人間性は、お金をゴマカしてでも一人占めしたいほどに利己的だったり、狭い心でしかなかったりする。しかし、神さまが、そのような私たちを創られたからには、生まれながらの私たちも「神さまの作り損ねの作品」ではない。神さまは、そのままの私たちを深く愛し、まずはそのままの私たちを「よし」とされているのだ。しかし、神さまはそれだけに留まらず、「生まれながらの私たち」という器に、「イエス様のたましい」である「聖霊」を宿らせて下さって、「生まれながらの私たち」が新しい生き方も出来るようにして下さっているということだ。つまり、聖霊は、元々の私たちに憑りついて、私たちを元の人格とは違う人間に変質させてしまうということではない。元々の私たちには、信じる自由も、信じない自由も与えられ、元々の私たちは、どんなに狭い心の者であっても、100%尊重され愛されている。その上で、神さまは、新しい命の息吹き、新しい生き方のエネルギー源として、聖霊をプレゼントして下さるということなのだ。それが使徒言行録から読み取れることだと思う。 

 さて、私ことNatは、生まれながらには、相当利己的人間と思う。通勤電車の中で、一旦席が空いて座ったら、歳とったオバアサンが乗ってきても、一瞬も二瞬も寝たふりをしようかと思ってしまう人間だ。私という人間の「元々の素材」はそういうものだ。しかし、私もクリスチャンだから、そんな素材の私にも、イエス様のたましい、聖霊が宿っているのであろう。そして聖霊は、私という素材に宿りつつ、私を少しづつ、神さまの方向に向かって歩む人間に新たに作り変え続けているのだろうと思っている。 

 最近、近くの中山の辺で、踏切りに老人を救いに飛び込んで犠牲死された女性のことが報道されている。私がその場にいたらどうか? 生まれながらの、元の素材のNatでは、飛び込むことは考えられない。自分ばかりが可愛いからだ。しかし、私には聖霊が宿されている。とすると、もしかして、神さまが「今こそ」と思われる時、私は思いがけない行動に出て、その女性のように踏切に飛び込む勇気が与えられるかも知れないと思う。聖霊なしのNatでは絶対ないが、聖霊の働きで、そんなNatでも、思わぬことも出来るNatになれるかも知れないというほうが嬉しい。そう思う。 

 今月、お父さん・お母さんの礼拝では「みなが共に生きる」というテーマを与えられている。しかし、それは、生まれながらの私たちが尊重しあうというだけではないだろう。今日は、聖書から、生まれながらの私たちの一人一人、神さま・イエスさまを素朴に信じる時、皆、元の素材の器に、新しい生き方のための聖霊を宿してもらえるということを読みとった。私たちが教会で共に生きるというのは、そのように、皆、生まれながらの器に新しく聖霊を宿してもらい、新しい生き方に向かう者同士として、共に生きるということだと思う。そして、今日のこの話を聞いた一人ひとり、みな、そのような新しい生き方に招かれているのだということを信じ合いたい。・・・・私がしたお話しはこういうお話だった。         Nat   

人生の苦境って?

「神さまを信じて生きている人が、なぜこんな苦しい境遇に追いやられるのか?」という昔からの人類の問いがある。 クリスチャンにもある疑問であろう。 

 まず旧約聖書の時代。神に選ばれた民のイスラエル民族が、なぜこんなに苦しむのか? 彼らは「苦難は人間の罪への神の怒りであり罰なのだ。」と考えた。それが、新約聖書の時代になると、イエスキリストが人間の罪を全て十字架で償いをして下さったということになるので、もはや「苦難は罪への罰」では説明がつかなくなる。一応、「試練、鍛練」という説明もあるが、試練、鍛練も長く続くと、これ本当に試練、鍛練?という疑問になる。 

 この世で人間は弱い存在だ。地震や津波、あるいは疫病で大勢が死ぬ。それが、神様の創られた「この世」だ。クリスチャンだけは地震や津波でも疫病でも死なない、その分、他の人が代わりに死ぬ…などと期待するクリスチャンもいないだろう。そもそも、神の創造されたこの世に、なぜ地震や津波、疫病があるのか? それでも神は全能であり愛なのか? 良く聞く疑問だ。しかし、神の創造した最初の生命は海の底の溶岩の吹き出す環境で生まれたらしい。生命と、火山活動も地震も繋っている。生まれた単細胞生命は我々哺乳類にも進化したが、病気を起こすばい菌にも、或いは体に有用な大腸菌にも進化した。このように神の創造されたものは全て横で繋がっている。それを、人間の観点から見て都合のいい処だけもらっておいて、地震とかばい菌とかが無ければいいのに等というのは、人間の身勝手そのものであろう。ということで、人間の住むこの世には、地震も津波も疫病も、そして貧困も生活苦もある。神は、エデンの園の東の、イバラの生えたこの世に、人間を放たれたのである。しかし、神は人間をイバラの世界に放たれ、ほっておかれている訳ではない。吹けば飛ぶような人間の命。だからこそ、そのような一人ひとりの命に、神は愛と憐みのまなざしを注がれているのである。それが聖書の出発点であり、クリスチャンの人生理解の出発であろう。
 
 私は、25年前、豪州に駐在していた時、ある日、突然、右目が重症の網膜剥離となった。大手術の甲斐もなく、右目の正常視力を喪失した。片目人間になったその時、不思議とショックはなかった。「ああ、これから、Natは片目の人間になるんだ。神様がそう決められたんだ。ならば、今後は片目のNatこそが、唯一のNatであって、それこそが神さまが愛して下さるNatだ。それならもう両目に戻りたいなどとは一切思うまい。」医者から片目の宣言を受けたその病室で、私の心はそういう思いで満たされていた。その後、友人なんかは、「両目でなくてよかったですね。」とか、「それは神さまが、Natさんが人の痛みを分かるためにそうされたのでしょうね。」とか、色々なことをおっしゃる。しかし、私は、そういうことを何も考えなかった。神さまが「Nat物語」という物語のシナリオを書かれている。片目も、そのシナリオ展開上、神さまが決められた物語展開だ。そうされる神さまの趣旨など人間には一切分からないし、分からないでもいい。物語のテーマが「神さまのNatへの愛」である限り、個々の場面の意味や筋書き展開の趣旨は不可解でも、最後までワクワク・ドキドキしながら読み進むのでいい。私はそう信じるようになった。 

 思えば、私のその信仰は、亡き父から受け継いだものだと思う。父は若い頃、クリスチャンの女性と結婚した。しかし、その人は長い間、病床に臥したまま13年で死んでしまった。父は、その深い悲しみを経て、結局は牧師になった。そして再婚して私が生まれた。その父が人生の後半に、何につけても常に常に言い続けていた言葉がある。それは「主の名は誉むべきかな」である。愛する伴侶を病気で失ったという耐え難い悲しみは、その後も心から消えることはなかったであろう。そう人生だが、それでも尚、父は自分の人生物語には主の愛が貫かれていることを信じ、万感の思いを込めて「主の名は誉むべきかな」と唱えたのである。しかし、それは、父の人生だけではない。私の人生も、皆さんの人生も、たとえどんなに不可解な苦しみ・悲しみがあろうとも、そこには神さまの愛に貫かれていると信じていいのだと思う。     Nat

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