先週の日曜、教会のお父さん・お母さんたちが中心の朝の早い方の礼拝で、私が聖書からのメッセージを話す役割をした。
聖書の箇所は、新約聖書の使徒言行録22章17-21節。使徒パウロが、伝道を始めた最初の頃、まだエルサレムの神殿で祈っていると、我を忘れた状態になった時、心にイエス・キリストの声が聞こえ、「パウロよ、あなたは遠く異邦人の地に行って、私のことを証しするのだ」と命じられたそのシーンである。
それまではユダヤ教はユダヤ人だけのものであった。ところが、そこから生まれたキリスト教はパウロによりユダヤの外の諸外国にまで伝えられることになる。そのように異邦人に伝えられることになる「知らせ」とは、一体どんなものであったのだろうか。私は、それは「驚くべき知らせ」であったと思う。ユダヤ民族も、回りの他民族もそれぞれの神がいた。ユダヤ民族はヤーウエという名の神。直ぐ隣のパレスチナの人たちはバールの神。ギリシャの方に行くと神々と複数だが、ゼウス等の神が登場する。そのように神の名前は違うのだが、だいたいにおいて、その神を信じ、拝み、その神の心に適う正しい生活をするとその神に守られるというのが、その信仰の中身であろう。ところが、パウロがもたらした「驚くべき知らせ」とは、「神が私たちのために命を捨てて下さった」という、誰もが聞いたことのないものだったのだ。
それぞれの神を拝んで、自分を守ってもらって生きようとする人間にとって、神の心に完全に適う正しい生活をするのは難しい。だから、確かに神によしとされ、守られているという確信は得にくい面もあろう。そこでパウロが言ったであろうことは、「皆さん。皆さんは、その信じている神に完全に認められて、守られていると確信できていますか?もしも結局はしっかり神に繋がっていないなら、皆さんの人生は、凧糸の切れた凧みたいに漂流しているみたいなものだし、命が終わる時、みなさんのたましいが暗闇に消えて終わりということかもしれませんよね。これらは、私たち人間の方から神に近づき、神につながることは難しいからです。しかし、新しい知らせがあります。神から皆さんのところに降りてきてくださったのです。そして、皆さんのために神は命まで投げ打ってくださったのです。ユダヤの地のナザレの人、イエスは、神が人に宿った人でした。神の子と言ってもいい。神はその一人子イエスを、敢えて十字架につけ、皆さんのために命を捨てさせたのです。元々は、神さまから見て皆さんこそが十字架につけられてもしょうがないような存在だったのに、イエスが皆さんの替わりに十字架で命を捨ててくれた。このお陰で、このことを信じる人が、信じるだけで、今度こそ神にしっかり繋がり、神によって力と希望を与えられる人生に変えられる、そして、死をも越える永遠の命につらなることが出来るようになったのです。このことの証しとして、神はイエスを十字架の死の後、復活させました。これが、今日、私が皆さんに伝える新しい知らせなのです。」
これを聞いた異邦人たちは、これまでにない知らせに驚きつつ、多くの人がその場で、パウロに聞きました。「パウロ先生、では私たちはどうしたらいいのでしょうか?」。パウロは「イエスの十字架の死があなたのためと、あなたが信じるなら、何も躊躇うことはない。今、この場で、私からイエス・キリストの名による洗礼を受けなさい。」といって、何千人の人に洗礼を授けたのだ。まだ、新約聖書もない。教会組織も手続きもない。だから、皆、この新しい驚くべき知らせに、純朴に反応して、その場で洗礼を受けたのだ。
そうやって、この驚くべき知らせは、バトンタッチされ、2000年後の日本にも伝わった。私は祖父・父からそれを伝えられた。そして中学校2年の時、素朴にイエスさまを信じて父から洗礼を受けた。「イエスさまがいつも一緒にいて守ってくれる」といったセンスの信仰だ。そして、高校生になった時、キリスト教の本をちらっと見たら、そこにこう書いてあった。「イエスはあなた方みなのために死んだのではなく、あなたとの関係に関する限り、あなたのために死んだのだ。」と。神の子が、私一人のためにわざわざ命を捨ててまで、私を神に繋ぎとめようとしてくれたのか。そう思うと、思わず涙があふれた。私の場合は、先に洗礼を受けたが、後でイエスが私のために死んだことを知った。
そして、その私が、今度は「イエスはあなたのために死んだのだ」との驚くべき知らせを、今日はここにいる皆さん、いや、あなたに伝える番なのだ。あなたのために神の一人子が命まで捨てて下さった。それで、それを信じるあなたは、もう神さまにしっかり繋がり、力と希望に満ちた新しい人生へと変えられていける。昔、パウロから聞いた異邦人がその場で洗礼を受けたように、私が中二で洗礼を受けたように、今、この知らせを聞いたあなたも、何も躊躇うことはない。教会では4月のイースター、またペンテコステ、クリスマス等の機会に洗礼を施しているし、その準備の会もある。何も躊躇わず、洗礼を受けて、イエスの十字架による救いにつらなるといい。私はあなたにその時が一刻も早く来ることを祈ってやまない。
というのが、私のした話だ。お父さん・お母さんの心に届いただろうか。 Nat