♪♪ NATの独り言 (心・ジャズ)

生きていく上で信じてること。大好きなジャズのこと等

2014年03月

十字架のイエスの絶望の叫び

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」。これは、イエスが十字架で最後に絶叫した言葉だ。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言う意味だ。マタイとマルコの両福音書に書かれている。しかし、この「神の子らしくない絶望の叫び」をそのまま描写したマタイ・マルコは、私たちに何を伝えようとしたのだろう。

旧約聖書の詩編22. 2に「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになるのか」で始まるダビデの詩があり、確かにイエスの叫びとダブる。しかも、その詩は、絶望の叫びから始まるが、神への賛美に変わっていく。そこで、イエスが自らの状況をこのダビデの叫びにダブらせていた、あるいはマルコやマタイが、このダビデの詩を意識して、福音書のイエスの叫びを書いたのは、そうだろうと思う。しかし、だからと言って、イエスが十字架の上で、落ち着き払って、この詩を読み神への賛美を唱えんとしたという解釈は十字架の本当の意味を見失うと思う。

私は、イエスはこの時、壮絶な苦しみと孤独の中で本当にこれを絶叫したのだと思っている。イエスの心はこうであったのではないか:「神よ、こんなに苦しいのをあなたはご存知ですか。出来れば詩篇の詩が絶望から神への賛美に進んでいくように私もあなたを賛美したい。これはあなたのみ心の中でのことなのだから。それにしても苦しい。あー神よ。」 消え行く意識の中で、このような心の葛藤の中から上げた叫び声ではなかったと私は思う。そして、この叫びは、本来は私が上げねばならなかったものだったのである。イエスは、私の身代わりに、この叫びを、苦しみの中で本当に上げて下さったのだ。イエスが、本当にこの叫びを上げて下さったからこそ、もう私は、この叫びを上げなくていいということだ。

マタイ・マルコもそう感じたから、わざわざ原語のヘブライ語で生々しくこれを書いたのである。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」・・これは、私のための主の救いの叫びなのだ。今、この時、心の底から主の苦しみを受けとめたい。  Nat

イエスの十字架刑死の苦しみの話

先週から、教会では、いわゆる「受難節」といって、イエス・キリストが十字架の苦難の道を歩まれたことを想う時である。以下は、本朝、うちの教会の、朝早いほうの礼拝で、お父さん/お母さん中心の礼拝のプログラムに対して、私が寄稿した文章である:

・主イエスが苦しまれる受難節に入った。受難節の最後に、苦しみの頂点である十字架刑がある。受難節はまさに、この十字架刑における主の苦しみを思う時だ。

・十字架刑で人はどうやって死に至るか、結局は窒息死だそうだ。まず、両腕の骨に釘を打たれる。そして両足を纏めて釘打つ。それで自分の体重で体が下にずれると、気道が狭くなって息が苦しくなる。そこで、釘打たれた両足を突っ張り、上に体を持ち上げて、必死に息をする。疲れると下にずれるが、今度は又息が苦しくなる。ということで、上下動を繰り返して最後に窒息死に至る。イエスは朝9時から午後3時までの6時間十字架の上で苦しんだ。その間、上下に何度も動いた筈だ。そして最後に力尽きた。

・遠くからこれを見ていた弟子たちは、上下動して、もがき苦しむ主を見て、胸が張り裂けたであろう。「先生、なぜ、神からの力で、そこから逃れないのですか? なぜ、苦しみに委ねられているのですか?」 そして動かなくなった主を見た彼らは絶望する。

・しかし、その後、復活の主に出会い、彼らは、自分たちの身代わりに主が苦しまれたものであったことを知るのである。


・神から見て、本来十字架につけられるべきは、この私である。この私の為に、主が身代わりに、あれほど壮絶な苦しみをして下さったのか。そう思うと涙が止まらない。


・・・というお話し。  Nat 

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