「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」。これは、イエスが十字架で最後に絶叫した言葉だ。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言う意味だ。マタイとマルコの両福音書に書かれている。しかし、この「神の子らしくない絶望の叫び」をそのまま描写したマタイ・マルコは、私たちに何を伝えようとしたのだろう。
旧約聖書の詩編22. 2に「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになるのか」で始まるダビデの詩があり、確かにイエスの叫びとダブる。しかも、その詩は、絶望の叫びから始まるが、神への賛美に変わっていく。そこで、イエスが自らの状況をこのダビデの叫びにダブらせていた、あるいはマルコやマタイが、このダビデの詩を意識して、福音書のイエスの叫びを書いたのは、そうだろうと思う。しかし、だからと言って、イエスが十字架の上で、落ち着き払って、この詩を読み神への賛美を唱えんとしたという解釈は十字架の本当の意味を見失うと思う。
私は、イエスはこの時、壮絶な苦しみと孤独の中で本当にこれを絶叫したのだと思っている。イエスの心はこうであったのではないか:「神よ、こんなに苦しいのをあなたはご存知ですか。出来れば詩篇の詩が絶望から神への賛美に進んでいくように私もあなたを賛美したい。これはあなたのみ心の中でのことなのだから。それにしても苦しい。あー神よ。」 消え行く意識の中で、このような心の葛藤の中から上げた叫び声ではなかったと私は思う。そして、この叫びは、本来は私が上げねばならなかったものだったのである。イエスは、私の身代わりに、この叫びを、苦しみの中で本当に上げて下さったのだ。イエスが、本当にこの叫びを上げて下さったからこそ、もう私は、この叫びを上げなくていいということだ。
マタイ・マルコもそう感じたから、わざわざ原語のヘブライ語で生々しくこれを書いたのである。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」・・これは、私のための主の救いの叫びなのだ。今、この時、心の底から主の苦しみを受けとめたい。
Nat