♪♪ NATの独り言 (心・ジャズ)

生きていく上で信じてること。大好きなジャズのこと等

2014年07月

本土空襲・・日本軍も重慶爆撃・・

 毎日、戦争の話で恐縮だが、若い人たちと戦争のことを考える場合、まずは身近な話しから始めることになる。

 戦争末期に日本本土が受けた米軍の空襲の体験は、まだご存命の方からお聞き出来る。200以上の都市で無差別絨毯爆撃を受け、33万人もの日本人市民が殺された。それに触れ、先ずは戦争の恐ろしさを考える。

 次は「何故、そのような悲惨なことになったのか?」だ。本来、19世紀末の列強のアジア侵略まで遡るのだろうが、少なくとも、日本が特に1937年以降の全面日中戦争で中国各地を侵略したこと、その中で無差別爆撃の先駆けとして日本軍が200回以上も重慶(蒋介石政権の首都)を空爆したこと、更には1941年からはアジア・太平洋各地を侵略して行ったこと。そのことを考えねばならないだろう。その言わば「リベンジ」で最後には本土空襲、そして原爆投下となったのである。日本がヒドイか、米国も結構残酷か・・議論は尽きない。

 しかし戦争は国家同士の大量殺人行為であることに変わりない。一度戦争を始めると、このような壮絶な殺し合いにまで至る。だから戦争は絶対始めてはいけない。今年もこのことを若い人と一緒に考えたい。  Nat

 

日本も昔、今のロシア・中国みたいだった・・

 今日の世界で、武力行使しつつ領土と覇権の拡大を図っている国が二つある。言うまでもなく、ロシアと中国である。世界はロシアと中国のことを憤っているが、両国とも聞く耳を持たない。逆に米国を筆頭とする「西側先進国」の傲慢不遜な態度に対する自衛行為だと思っている。

 振り返れば、日本も似たように「聞く耳持たない国」になった時代がある。1922年のワシントン海軍軍縮会議(戦艦の保有数の制限)あたりから、段々、米国が日本を不当に抑え込もうとしていると、米国への敵愾心を高める。そして1941年には、今ロシアが経済制裁受けているように、日本もABCD(米英中蘭)包囲網で石油等の供給を断たれ、ついには同年12月の対米開戦に突入する。

 日本も、今我々が呆れているロシアや中国のように振る舞った時代があったということだ。そして、そうなったのは一瞬にしてではなく、少しずつ積み重なってそうなって行ったのである。今日の集団的自衛権発動の問題も、そのような歴史観の中から見つめることが必要であろう。  Nat

 

戦争時代に「万歳自決型の突撃」をした日本軍の狂気

 もう直ぐ8月。私の教会でも若い人と戦争のことを考える時期だ。

 私としては特に今年は、日本人の「万歳自決型の突撃」のことに思いを馳せている。太平洋の各戦地では、弾薬の切れた日本兵一団が「万歳」を叫びながら、銃弾を打ちまくる米軍に突撃し、全員討ち死にした。そして、戦争末期には学徒を含む4600人が神風特攻隊で突撃死した。更には、終戦直前の昭和204月、もはや空から戦闘機の援護のない丸腰の戦艦大和は、米軍機に即撃沈されるのを分かった上で、「1億総特攻の先駆けとならん」と称して沖縄方向に出発、その一日で4000人の兵が海の藻屑となった。

 確かに日本には、戦国時代のように城ごと全員自決というような独自の美学はある。しかし、日露戦争の頃は、もっと合理的な戦いをしていた。それが日中・太平洋戦争で、最後は「一億総特攻」までを叫ぶ狂気に変節した。本来大人しい稲作農耕民族の日本人の中に、「狂気」も潜むということか。私も戦争を知らない。読んだだけだ。その私が若い人に、この「狂気」をどう語ればいいのだろう。二度と狂気を繰り返さないために。 Nat

原発問題は、いよいよ迷走中・・日本は危ない

 九州電力の川内原発が、いよいよ、規制委員会の「お墨付き」を経て、日本初の「新安全基準」での再稼働に進む。九州電力の原発は、東電福島の“欠陥原発”であった旧式のBWR(沸騰水型)と違い、原子炉も強く大きなPWR(加圧水型)であって、BWRよりは事故リスクは低い。ということもあり、現在、審査中の原発の圧倒的多数はPWRである。それでも、私は「新安全基準」は所詮2-3年で対応の出来ることに限定した「応急措置」だけに限っており、私の言う福島事故を根本的に踏まえた「原発やり直し」レベルではないので、拙速再稼働には反対してきた。 

 先ず、規制委員会が「安全基準をクリア」と判定する、原発のハード面。そもそも新安全基準が見切り発車的に決まった際から「5年猶予問題」が大きな問題として指摘されていた。要は、本当は対策すべきだが時間のかかるものは、今回の基準では5年間猶予したのだ。具体的には、(1)いざ事故の場合の炉内圧力を逃がす為のフィルター付きベントの設置、(2)免震設計の緊急時制御室の設置、(3)電源ケーブルの難燃化入れ替え等だが、これらは皆、重要対策だが実行には時間がかかるので、5年間は猶予するとしたのだ。当時から「5年間の間、大地震・大津波は来ないとでもいうのか?」と強い反対があった基準だが、委員会はこれで押し切った。今回の川内原発への判定は、この基準に沿って「当面の応急手当」は出来たみたいですね・・ということに過ぎない。川内原発はもう運転開始後30年の比較的古い原発だ。電源ケーブル一つとっても古く、いざとなると熱にやられる。それを今回は、取換えなくても目をつむるということだ。今後、地元に対しも、国民に対しても、5年先でいいと猶予した追加安全策なしの応急手当だけで何故十分に安全なのか? 今回の応急手当で既に十分に安全なのなら何故5年後に追加安全策を求めるのか?につき、出来るものなら、納得のある説明をして欲しい。出来ないと思うが。 

 次に、たとえ原発のハード中心の規制委員会の基準をクリアしても、それだけでは全く不安なのは、既に報道でも問題とされている地元の避難計画とその実態だ。福島の教訓の大きなもの、それは、いざ事故が起きた場合の、爆発や放射能拡散等の情報共有、住民の避難など「ソフト」面だ。それが不十分のまま、見切り発車することには強い危機感を覚える。 

 こういう問題が発生するのは、原発反対派が単純すぎるスローガンとして「脱原発」「卒原発」あるいは「縮原発」等と主張、感情的に“とにかく、もう原発はイヤだ”という一方、電力会社や産業派は、「安全の確認されたものは、早期でも再稼働」と主張、この両極端の主張が、全く次元の違うまま、国としては早期再稼働への道を走っているからだ。だから、見切り発車の安全基準などがまかり通る。実はその安全基準も認めるとおり、そもそも抜本的対策は5年掛かってもやるべきなのである。だから、私は最初から主張している。5年位は、原発は一切再稼働させず、古いもの、多くのBWRは廃炉、そして再稼働の可能性のある比較的新しいものも、抜本的新対策を導入した「一からやり直し」のものでないと再稼働させない。そうであるべきと言っている。それを「原発やり直し」というスローガンで主張してきている。5年間の原発なしの期間の、電力コストの高騰による日本の産業の競争力の一層の低下問題については、その問題が大きな産業には、国家が税金から電力コストの補填金を給付するという思い切った策が必要であろう。 

 しかし、この私の意見は少数意見のようだ。今、日本は、政権による見切り発車的再稼働が進む中、反対派は「原発はもうイヤだ」と感情的で、建設的でない意見しか言わない。昔の国会での「何でも絶対反対の野党」みたいなものだ。だから、結局、政府はそういう絶対反対の反対派の運動は徹底無視せざるを得ない、そこで、そのような反対派では結局、政府を止められない。ということで、今、日本はおかしなことになりつつある。

 原発は「やり直し」であるべきだ。        Nat 

網を捨てて主に従ったペトロのお話し

 先日、私が行っている教会で、お父さんやお母さんや一般成人中心のグループで、聖書の言葉からのメッセージを、私が担当した。以下がその要約。暇な人は見てくださいね。

 

『 新約聖書のマタイ福音書4章13節に、後に主イエスの筆頭弟子となるペトロが、初めてイエスに出会い、そこで弟子にされる物語がある。ペトロは漁師であったので、ガリラヤ湖で弟と一緒に網を打ち、漁をしていた。そこにイエスが声を掛ける。いきなり「私に着いて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」と。ところがもっと驚くのはペトロの応答だ。ペトロ兄弟は、何と直ぐ網を捨てて、イエスに従ったとある。漁師が生計を掛けて必死に仕事をしている真最中に、イエスは声を掛ける。「貴方は、生計のこと、漁のことで頭が一杯かも知れない。しかし、私はあなたにもっと大事なことを教えて上げよう。貴方の人生を変えて上げよう。」と迫ってくるのである。ペトロは、網を片づけもせず、両親に挨拶もせず、いきなりイエスに従った。これまで大事と思っていたものを、彼は全て置き去りにし、イエスの投げかける「新しい人生」に全てを懸けたのである。

 このようなイエスの呼びかけは今でも続いている。もはや目に見える生身のイエスではないが、イエスを信じて生きているクリスチャンからの声かけとして、そのことは続いている。私の祖父は、もと明治時代の電電公社の技師であったが、岡山局時代に、通っていた岡山教会で、運命の出会いをする。既に伝道師となっていた私の祖母(祖父の妻になる人)が岡山教会に、ある夏やってきたのだ。そこで二人は愛し合うようになったが、祖母は結婚の条件として「改めて神学校に行き、牧師になり、自分と共に日本中の伝道をすること」を課す。祖父にとって、それはイエスの声掛けであったに違いない。祖父は「ペトロの網」に相当する電電公社社員の地位を捨て、同志社大学神学校に4年行き、牧師となって祖母と西日本中の伝道をして回る人生に変えられていったのである。83歳の時の祖父の日記を見ると、祖母(の中にいたイエス)に声掛けられ、全く違う人生を歩んだことへの感謝が満ち溢れている。

 その祖父の二代後が私だ。父も牧師になったので、中学生の時に父から洗礼を受け、クリスチャンになった私だが、全然熱心なクリスチャンでなく、熱心な商社マンでしかなかった。商社マンとしてあれこれやる傍ら、日曜には申し訳程度に、この教会の礼拝に来るが、礼拝後は人と付き合うのがイヤで逃げ帰っていた。1984年のある日、Mさんというおば様の教会員が礼拝後に出口で私を待っていた。「溝口さん、教会学校を手伝って下さいませんか?」・・私は、その瞬間「ああ、ついにイエス様に掴まってしまった」と思った。もう逃げられない。そこで、いやいやだが、教会学校の中高科男子担当になるが、それから30年、私の人生の後半はイエスによって全く別のものに変えられた。教会学校(今のジュニア・チャーチ)全体の責任者になり、実質それが私のライフワークになった。商社も50歳代の途中で脱出し、今の企業経営支援投資の仕事に転じている。

 このように、主イエスは、私たちのあくせくする生活のただ中で我々に声をかける。「あなたの思い悩んでいるものよりも、もっと大切なものを教えて上げよう。あなたの人生を大きく変えて上げよう。私に着いてきなさい。」と。ペトロも、それまでの生活のしがらみの象徴である網を直ぐに捨てイエスに懸けた。そして後の世の聖ペトロ(初代ローマ法王)へと変えられた。私の祖父も、イエスに声かけられ、網を捨て、従った。私自身もイエスに声を掛けられ、人生の後半が全く違う物語になった。しかし、後悔することは何もない。よくぞ声を掛けて下さったと思うのみだ。

 この話を聞いている皆さん一人ひとりにも、あなたの生活の中で、主は声を掛けられる。あなたの拘っている網を捨て、私に従ってきなさい。あなたの人生を変えて上げよう」と。何も、皆が今の生活を捨て、牧師になる、教会学校の責任者になれということではない。あなたにふさわしい道が与えられるということだ。「網を捨てて、私に従いなさい」、主は今、あなたにそういって手を差し伸べておられるのである。これまでのしがらみの網を捨て、主を信じて、新しい人生を主に従って与えられる者になろうではありませんか。 』

       Nat

 

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