クリスマスの翌週の今日の日曜朝(2014年12月28日)。教会の、9時からの、比較的若い父母の多い礼拝で、私が聖書からのお話をする番であった。(聖書個所は、ルカ2:25~35。)以下は、その要点。
「イエスの誕生から一定の日数がたった時、イエスの父・母、ヨセフ・マリアは、イエスを連れて都エルサレムにのぼり、神殿にお詣りした。しきたりに沿い供え物を捧げるためだ。そこに、神からの霊に満たされた人で、シメオンという老人がいた。神の霊はシメオンに告げていた。『あなたは救い主に会うまで決して死なない』と。すっかり老人になるまで、それを待ったシメオンだが、神はついに、彼に救い主との出会いの実現を告げる。シメオンは神殿に行き、赤子イエスを抱き上げ、神に祈る。『神よ。漸く、これで私は死ねます。』そして、マリアに告げる、『この子こそが、万民のための救い主になるのです。』と。
聖書に書いてある記事はそういうことだが、これは私たちに何を語りかけているのだろうか? 一つは、イエス・キリストは全ての民の為の救い主、つまり、あなたの救い主だということだ。そして、シメオンが、イエスに会ったことで、人生が全うされ、『もうこれで死んでもいい』とまで感動したように、救い主イエスとの出会いは、私たちの人生を決定的に満たすということだ。
私自身は、牧師の家に生まれたので、生まれてからずっと主イエスに出会っていたようなものだが、それでも、一度教会を離れて仕事一筋の人生になっていたのを、親父の死をきっかけに、主イエスにより教会に連れ戻された。それ以来、人生を、主イエスにより決定的に満たされたものに変えられ、心から感謝している。
もう一人、数年前に亡くなったMさんというおジイちゃんのことを伝えたい。Mさんは、人生の途中から、色々あって家族との絆も失い、歳をとり、江田の地に流れ着いた時には孤独でお金もない状態になっていた。そして、ある日、田園江田教会にふと来られた。そのうち、洗礼を受けることを考えたいとも言われるようになった。しかし、洗礼を受ける前に、彼は脳出血で倒れる。そして、全く意識がなくなり、心臓だけが動いている状態になった。当教会では、そのようなMさんに、意識はないながらも、本人の願いを容れ洗礼を授けることにした。病院の病室での洗礼式に教会の役員として立ち会った私は、その時、驚くべき体験をした。そのことを決して忘れない。というのは、S牧師先生がMさんの頭に手を置き、洗礼を授けると宣言した時、それまで、傍らの血圧表示パネル上、最高血圧でも70くらいしかなかったのが、みるみるうちに150くらいにまで上がったのだ。S牧師先生は、その時、奇跡的に意識が戻ったのでしょうか、と言われていたが、もしそうであれば、人生の最後のいまわの時に、破滅的な人生であったと思っていたものが、主との出会いで、最後にはドンデン返しで、一気に満たされた人生に変えられたことを、Mさんが、全身の血を煮えたぎらせる程の感動をもって受けとめたということになる。一方、もし、医師の見立て通り全く意識はもうなかったとすると、どうだろう。洗礼はオマジナイではない。主イエス・キリストの生きた霊が宿るということと信じられている。そうであれば、意識はなくても、Mさんの霊に、主イエス・キリストの霊が宿った瞬間に、どんなにオカルト的に聞こえようが、Mさんの血圧を大きく上げるほど、Mさんに対して決定的なインパクトのあることが起こったとしてもおかしくはない。どちらの解釈にせよ、私は、Mさんは人生の最後の瞬間に救い主イエスに出会い、最後の最後で人生を決定的に満たしてもらったと信じたのである。私としても感動の体験であった。
シメオンにも、Mさんにも、人生の最後に臨み、決定的に人生を満たした主イエス。その主イエスは、全ての人とのに出会いを創られる。そしてこれを聞いているあなたは、まだ人生の途上だ。あなたは人生の途上でイエスに出会おうとしている。あなたは、それにより、これからの人生を決定的に満たされ、新しい人生に招かれようとしていると、私は信じる。そのことをあなたも信じ、一緒に、心から『主よ私の所に来てください』と祈るものとなろうではありませんか。」 ・・・お話はここまで。
そして、この後、讃美歌21の443番、「おいでください、イエスよ、ここに、この胸に」と皆で歌ったのである。以上です。年末に、この話のとりつなぎの機会を与えられ、感謝です。
Nat