♪♪ NATの独り言 (心・ジャズ)

生きていく上で信じてること。大好きなジャズのこと等

2014年12月

Natのした聖書のお話: 人生を決定的に満たす主との出会い

 クリスマスの翌週の今日の日曜朝(20141228日)。教会の、9時からの、比較的若い父母の多い礼拝で、私が聖書からのお話をする番であった。(聖書個所は、ルカ2:25~35。)以下は、その要点。 

「イエスの誕生から一定の日数がたった時、イエスの父・母、ヨセフ・マリアは、イエスを連れて都エルサレムにのぼり、神殿にお詣りした。しきたりに沿い供え物を捧げるためだ。そこに、神からの霊に満たされた人で、シメオンという老人がいた。神の霊はシメオンに告げていた。『あなたは救い主に会うまで決して死なない』と。すっかり老人になるまで、それを待ったシメオンだが、神はついに、彼に救い主との出会いの実現を告げる。シメオンは神殿に行き、赤子イエスを抱き上げ、神に祈る。『神よ。漸く、これで私は死ねます。』そして、マリアに告げる、『この子こそが、万民のための救い主になるのです。』と。 

 聖書に書いてある記事はそういうことだが、これは私たちに何を語りかけているのだろうか? 一つは、イエス・キリストは全ての民の為の救い主、つまり、あなたの救い主だということだ。そして、シメオンが、イエスに会ったことで、人生が全うされ、『もうこれで死んでもいい』とまで感動したように、救い主イエスとの出会いは、私たちの人生を決定的に満たすということだ。 

 私自身は、牧師の家に生まれたので、生まれてからずっと主イエスに出会っていたようなものだが、それでも、一度教会を離れて仕事一筋の人生になっていたのを、親父の死をきっかけに、主イエスにより教会に連れ戻された。それ以来、人生を、主イエスにより決定的に満たされたものに変えられ、心から感謝している。 

 もう一人、数年前に亡くなったMさんというおジイちゃんのことを伝えたい。Mさんは、人生の途中から、色々あって家族との絆も失い、歳をとり、江田の地に流れ着いた時には孤独でお金もない状態になっていた。そして、ある日、田園江田教会にふと来られた。そのうち、洗礼を受けることを考えたいとも言われるようになった。しかし、洗礼を受ける前に、彼は脳出血で倒れる。そして、全く意識がなくなり、心臓だけが動いている状態になった。当教会では、そのようなMさんに、意識はないながらも、本人の願いを容れ洗礼を授けることにした。病院の病室での洗礼式に教会の役員として立ち会った私は、その時、驚くべき体験をした。そのことを決して忘れない。というのは、S牧師先生がMさんの頭に手を置き、洗礼を授けると宣言した時、それまで、傍らの血圧表示パネル上、最高血圧でも70くらいしかなかったのが、みるみるうちに150くらいにまで上がったのだ。S牧師先生は、その時、奇跡的に意識が戻ったのでしょうか、と言われていたが、もしそうであれば、人生の最後のいまわの時に、破滅的な人生であったと思っていたものが、主との出会いで、最後にはドンデン返しで、一気に満たされた人生に変えられたことを、Mさんが、全身の血を煮えたぎらせる程の感動をもって受けとめたということになる。一方、もし、医師の見立て通り全く意識はもうなかったとすると、どうだろう。洗礼はオマジナイではない。主イエス・キリストの生きた霊が宿るということと信じられている。そうであれば、意識はなくても、Mさんの霊に、主イエス・キリストの霊が宿った瞬間に、どんなにオカルト的に聞こえようが、Mさんの血圧を大きく上げるほど、Mさんに対して決定的なインパクトのあることが起こったとしてもおかしくはない。どちらの解釈にせよ、私は、Mさんは人生の最後の瞬間に救い主イエスに出会い、最後の最後で人生を決定的に満たしてもらったと信じたのである。私としても感動の体験であった。 

 シメオンにも、Mさんにも、人生の最後に臨み、決定的に人生を満たした主イエス。その主イエスは、全ての人とのに出会いを創られる。そしてこれを聞いているあなたは、まだ人生の途上だ。あなたは人生の途上でイエスに出会おうとしている。あなたは、それにより、これからの人生を決定的に満たされ、新しい人生に招かれようとしていると、私は信じる。そのことをあなたも信じ、一緒に、心から『主よ私の所に来てください』と祈るものとなろうではありませんか。」 ・・・お話はここまで。

 そして、この後、讃美歌21の443番、「おいでください、イエスよ、ここに、この胸に」と皆で歌ったのである。以上です。年末に、この話のとりつなぎの機会を与えられ、感謝です。   Nat

受胎告知のメッセージ・・・偶然の不幸の意味

 クリスマスの季節。それは、天使がマリアにイエスを身ごもることを告げる「受胎告知」から始まる。 以下は、私が先日、教会のティーンエージの若者グループ(ジュニア・チャーチわかえだグループ)の礼拝で伝えた聖書からのメッセージだ。

 

 『 天使は、マリアに告げた。「おめでとう。恵まれた女よ。あなたは男の子を産む、その子は王の中の王となる。」----  婚約はしていたが未だ結婚してなかったマリアは、おおいに戸惑い天使に言う。「私はまだおとめですので、子どもは出来る筈ないです。」それに対して天使は言う。「これはそういう人間の世界の出来事ではなく、神の業としてそうなるのだ。 そして、これはあなたへの恵みだ。」そこでマリアは「お言葉とおりになりますように。」と応答したという話だ。 

そもそも処女の懐妊という、ある筈のない出来事も、マリアを十分当惑させたに違いない。しかし、実は、マリアはその告知を聞きながら、もっと重大な懸念を感じた筈だ。なぜなら、当時のユダヤ社会で婚約中の懐妊は、他の男との結婚前不倫(姦淫)の疑いがかかり、姦淫の罪は石打ちの刑で死刑だからだ。マリアは婚約者ヨセフとの幸せな結婚、そして普通に子どもをもうけ、楽しい家庭を持つことを夢見ていた筈だ。それが、突然、未婚のまま神の子を宿し、それが故に死刑になる怖れを抱えることになったのだ。当然、「なぜ? なぜ私がそんな目に?」と強い疑問をもったであろう。 

この世には「なぜ? なぜ、私がそんな目に?」ということが多くある。卑近な例では、鏡を見ながら、「なぜ私の鼻は、こんなにカッコが悪いの?」と思う人もいるだろう。科学者にそれを聞いても、DNAの偶然の加減でそうなっただけの「偶然」としか言わない。自分の一生を左右するかも知れない顔の造形が「偶然」でしか決まらないとすると、「はずれ」た人は何という不幸か? そしてその不幸には何ら深い意味もない。偶然に不幸なだけだから。しかし、聖書は、それに何と答えるか? それがこの受胎告知の聖書箇所に秘められている。「あなたが思う、その偶然の不幸。それも、あなたが神を信じ、神にしっかり繋がって生きる時、それはあなたにとり、恵みに変えられていくのだ」というのが聖書のメッセージである。マリアにとり、理解も出来ず、死刑になる恐怖もある突然の出来事のお告げ。天使はそれを、「これこそが、あなたにとって大きな恵みになるのだ」と約束したのである。そして、マリアはそれを信じた。 

私自身、前にいた会社で、突然、非常に辛い立場になった時期がある。神さまに「これは何でしょう? 何か私が悪いことでもしたでしょうか?」等と祈っていた。暫くして、私は思うようになった。私がイエス・キリストを信じて神さまに繋がって生きている限り、今のこのことも、神様の計画の中で、私への恵みの一ページとして、神様が起こしていることなのだろう。とすると、例えば、転職して次の人生を生きるようにという「お告げ」なのかも知れない。果たして、私は結局10年前に転職し、それで今の私がある。私たちに起きる、その時には訳の分からない出来事、偶然の不幸にも思えること。これらは全て、私たちが神様を信じ、神様にしっかり繋がって生きる時、恵みに変えられていくということだ。聖書の中のマリアの出来ごとは、私たちにそのことを語りかけていると思う。 

この話を聞いた、若者の皆さん。みんなも、「なぜ? なぜ、私が?」と思うこともあろう。しかし、それも神様と繋がって生きる時、あなたへの恵みに変えられていく・・・今日の聖書はそうあなたに語りかけている。そのことを信じ、恵みに導かれる新しい生き方に変えられて行こうではありませんか。 』  (以上で私がしたお話しは終わり。)    Nat

 

 

 

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