先日、教会のジュニア・チャーチの中高生中心のグループで、旧約聖書エステル記からお話しをした。その要旨:
「今から2500年位前の話。その頃、イスラエルの国のユダヤ人は、ペルシャ(今のイラン)の支配化にあり、ペルシャの都スサにも多くのユダヤ人が住んでいた。その中に、エステルというユダヤ人の女性がいた。エステルは稀に見る美女であったので、ペルシャの王様の目にとまり、王妃に取り立てられた。エステルの叔父にあたるユダヤ人のモルデカイも王の役人の一人になっていたが、王の筆頭大臣に対して、敬礼をしないので、筆頭大臣はユダヤ人を憎むようになり、ついには、王の名で、ユダヤ人皆殺しのおふれを出すに至った。そこで、モルデカイは王妃のエステルに使いを送り“王にユダヤ人皆殺しの令を撤回するように頼んでくれ”と依頼する。しかし、エステルは“王に勝手に近づく者は、王が金の杓を振って招かない限り、皆死刑になる法律があります。ここの処、王から私への声かけは30日ほどないので、私が王の処に行くと、私は死刑になってしまう恐れがあります。”と答えた。これに対し、モルデカイは改めて使いを送った。“あなたが王妃にまでなったのは、神さまのご計画であり、この時の為に、あなたは王妃になったのではないか! だから、神さまのみ心に従い、与えられた役割を果たしなさい”と。そこで、エステルはそれを信じ、“分かりました。では私の為に皆で断食して祈ってください。”と答え、そして、エステルは王の処へ行く。王は金の杓を振り、エステルを迎えた。そして、エステルの願いを受け、ユダヤ人皆殺しの令を撤回、替わりに、それを仕掛けた筆頭大臣を死刑とした。というのが、聖書の物語だ。
この聖書の話は、一体、私たちに何を語りかけているのだろうか。それは、モルデカイがエステルに言ったこと:“私たちが今、ここにいるのも、神さまのご計画。だから、人間の思いを越えて、神のみ心を探り、それに従っていこう”ということだろう。
この世を生きる私たちには、二つの異なる考え方がある。一つは“この世に神さまなんているか分からない。いるとしても宇宙の彼方。だからこの世の出来事は、全て物質の法則で決まっている。一つのひとつの出来事は全て偶然でしかない。だから不幸なことにならないように、人間の努力で頑張るしかない。”という考え方。もう一つは“確かに神さまについては分からない。またこの世には、地震も津波もある。しかし、それでもなお、一つひとつの事の後ろには、神さまのみ心が秘められている。私がここにいることにも、神さまは意味を込められていると信じたい。だから、人間の思いを越えた神さまの心を図りつつ、祈りつつ、神さまのご計画の道を歩んでいきたい。”という考え方だ。聖書の語りかけるのは、この後の方の考え方。そして、それは私の生き方でもある。
私たちは、皆、この世で難しい局面に出会う。難しいことを突き付ける人にも出会う。その時、まず浮かぶ人間としての思いは、それから逃げたり、避けて通ろうとすることだろう。しかし、その時、神さまはあなたに問いかけているかも知れない。“あなたを、その場に置いたのは私だ。それは、まさに、この時の為ではないか。”と。そのような神さまの心を祈りの中で聞く私たちは、人間の思いを越えて私たちを導いて下さる神さまに身を委ね、勇気をもって進んで行く、そういう生き方をしたいと思う。」
というお話しでした。 Nat