今朝の教会の、9時からの早い方の礼拝(お父さん・お母さんや一般成人中心のグループ)で、時節にふさわしく、十字架のイエスと、その傍らの十字架の別の死刑囚の話(ルカによる福音書23章32節以降)を私が担当した。以下のようなお話:
『 【ただあなた一人のために】
イエスはついに十字架に付けられた。その時、弟子たちは、既にちりちりばらばらに逃げてしまっていた。では十字架の周囲に居た人たちはどういう人か。まず野次馬の民衆。そして、議員たちが「本当に救世主なら、自分を救ってみよ!」とイエスを嘲け笑う。ローマ兵も同じく、イエスをからかう。その時、イエスの左右に、重罪を犯して、はりつけになった二人の死刑囚がいた、そのうちの一人も、調子を合わせて「自分と我々二人を救ってみろ!」と嘲るのだ。遠くに隠れて見ていた弟子たちも「あの神の子イエス先生だから、ここから何か奇跡的な業を起こすのだろうか」とか思いつつ、見ていたに違いない。このように、そこにいた人は誰も、イエスが誰のために何をしているのか理解していなかった。イエスが人々の罪を代わりに担い、代わりに十字架について死に、3日目に罪も死も克服して復活し、決定的な永遠の救いをもたらす為に、苦しい十字架刑の役を今担っている、、、ということを、誰も理解していなかったのである。
ところが、そこに一人だけ違う人がいた。それは、もう片方の死刑囚だ。彼は、最初のの死刑囚に言う。「お前は神を恐れないのか。我々は自分のやったことの刑罰を受けているのだが、この方は何も悪いことをしていない。」そしてイエスに言った「あなたが御国にいらっしゃる時に、私のことを思い出してください。」イエスはこれに答えた「あなたは、今日私と一緒に楽園にいる」と。この死刑囚は重罪を犯し、死に瀕して、恐らく神の罰をひどく恐れながら、もはや自分には何も出来ない絶望の中にあったのではないか。しかし、彼は“地獄で仏”のようなイエスに会うのだ。その場に居合わせた全ての人がイエスを嘲る中で、絶望の中にあった重罪人の彼だけが、イエスを
“自分のためにこそ、今一緒に十字架に付いてくれている救い主”と認めたのである。しかし、彼は自分には“救ってください”という資格が全くないことを自覚もしていた。だから彼は「せめて・・あなたが御国にいらっしゃる時、私はそこには居ないでしょうが、そんな私のことを、少しでも思い出してくださいませんか」と言った。何も誇れない、罪を自覚した人の追い詰められた一言。それは、その死刑囚の、悲しくも、最もひたむきな「イエスに対する信仰告白」であったのである。イエスは、それに対して「あなたは今、救われた。あなたの信仰告白があなたを救った。あなたは今日、私と一緒にパラダイスに行く。」と救いの宣言をされたのである。十字架のイエス、復活に向かうイエスに、世界で最初に信仰告白したのは、この重罪を犯した死刑囚であった。そして、十字架のイエス、復活に向かうイエスに最初に許されたのもこの人だ。この死刑囚こそ、世界で最初のクリスチャンである。
日本の私たち。回りの多くの人は、この話の多くの民衆のように、十字架のイエスに無関心である。その中で、私たちは、偶然の計らいで教会に触れることとなり、主イエスに心で出会った。私たちは、この死刑囚のようには、死の直前に追い詰められてはいない。しかし、皆、狭い汚い心、どうしようもない弱さを持ち、人生の終わりには、この死刑囚と似たような所に向かっていく存在かも知れない。そのような私たちには、今、イエスの十字架が私たちにとり何なのかを問われていると思う。イエスの十字架は、ひとえに私のため、いや、この死刑囚が感じた通り、私一人のため、そしてそれは、私の狭く汚い心と弱さを十字架に付けて主の死と共に滅ぼし、主の復活と共に、私たちも新しい人生に生まれ変わるようにし、復活の主と共に新しい歩みを始めさせるためであるとしたらどうだろう。「私を思い出してください」と言った死刑囚のように、私たちも「こんな私ですが、どうか私を振り返り、私の人生を新しいものに変え、そして一緒に歩んでください」とひたむきに信仰告白することに招かれているのである。
来週のイースター。今、この中にも、そのような信仰告白をし、洗礼を受けて、主と共に生きようとする人がおられる。その方に続き、あなたも、あなたも、「主よ、あなたは私のために、いや私一人のために十字架について下さったのですね。私と共に歩んでください。」と、心から信仰告白する者となろうではありませんか。 』
・・・・以上でした。 Nat