♪♪ NATの独り言 (心・ジャズ)

生きていく上で信じてること。大好きなジャズのこと等

2015年10月

辺野古新基地 - 沖縄に海兵隊基地は本当に要るのか?

辺野古新基地の件で、沖縄県と本土の政府が全面対決。国民の多くは「地元がごねている」とか「政府は強硬過ぎる」などと、喧嘩評論はしても、「沖縄海兵隊は日本にとって必要なのか」という根本問題には無頓着ではないか。

● 政府の建前は「沖縄海兵隊は抑止力のかなめ」だろう。しかし、海兵隊は戦争開始された際に、実際敵地に上陸する切り込み部隊だ。その前に、より近代的な装置型の武力である空軍での制空、海軍での制海があることが前提だ。だから、米軍としても極東の抑止力の軍事上のかなめは、むしろ沖縄嘉手納などの空軍、横須賀の海軍第七艦隊であろう。

● だからこそ、沖縄の海兵隊の実戦部隊は既に各地からの交代要員だけになっており、また今後大半はグアム等に移転する。米国として、沖縄に形だけでも海兵隊基地を持っている必要があるとすると、台湾防衛の為だろう。日本の防衛には、象徴的意味しかない。ましてや、1兆円かけて、新しく辺野古に海兵隊専用の飛行場基地を作る軍事的意味は、米国サイドには乏しい筈だ。

● ならば、自民党政権は、何故ああも強硬に辺野古基地を推進しようとするのか? 一つは武力行使の象徴的存在の海兵隊が日本から全て出て、グアム・豪州に行ってしまうのでは、「米国の日本放棄」の始まりになり兼ねないという懸念から、海兵隊を「人質」にとっておきたいという思惑。もう一つは1兆円プロジェクトへの各種利権だろう。

● ということから、実は、日本国民の為の純粋国防上は不要な1兆円基地が、斯くも強硬にゴリ押しされようとしている訳である。どうなることやら。

    Nat 

聖書の言う「悪魔」って何?オカルト?

 

 聖書の中にはたびたび「悪魔」や「悪霊」が登場する。しかし、教会で牧師が「悪魔と戦いましょう」などと呼び掛けたり、皆で語り合う中で悪魔について触れられることも余りないように感じる。(天使に触れる人も少ないが。)

・なぜか? それは特にプロテスタントの人は、信仰を極力「知的な内容」にとどめ、少しでもオカルト的な雰囲気の要素は排除したいという傾向を持っているからではないだろうか。その意味では聖霊すらも避けたがる人がいる。

・勿論、教会に来始めた人に対していきなり悪魔の話をするのでは、まさにオカルトと思われるだけだろう。しかしクリスチャンの間でも、聖書に書かれている悪魔や悪霊につき、一切話されないのもおかしい気がする。

・悪魔や悪霊は人間の罪の意識を擬人化した表現に過ぎないと思いたい人もいるだろう。ならば、聖書に書かれたイエスが悪霊を追い出した話は、科学を知らない人達の書いた“たわごと”になり、そうやっていくと聖霊も存在が怪しくなる。宇宙のどこかに神は存在するが、あとは物質のみということになる。そう考えることで、最も「知的」な信仰内容になるかも知れないが、それが聖書の指し示す信仰であろうか。

・私たちクリスチャンが、目に見えない何かを信じるのであれば、人によってイメージは違っても、現代の科学では究明出来ていない世界の仕組みの中に、聖書の言う悪魔や悪霊が何らかの形で存在するのではと思う方が自然ではないか。

 

  福音書の中に出てくる、イエスを誘惑した悪魔や、イエスが追い出した悪霊。パウロが書いたこの世での悪魔との戦い。聖書における悪魔や悪霊の位置づけを総合すると、悪霊は人に取り憑き人の精神や肉体に障害を与える存在。一方、悪魔は人を邪悪な行為や罪に誘惑し、神のみ心に沿い生きようとする人に挑戦してくる存在だろう。そして聖書は「罪の心の象徴」に留まらない、ナマナマしい存在としての悪霊、悪魔について語っている。

・ここで先ず有名な設問:「悪霊も悪魔も神が創ったのか?」。ザビエルが、頭のいい日本人にこれを聞かれて、答えに窮したとか。キリスト教の長い歴史の中で神学者がこれを色々論じ、概ね「悪魔は神が創った天使が、創られた後で勝手に堕落して堕天使になったもの」という、もっともらしい解説で落ち着いている。又、堕天使にはルシファー等という名前まで付けられているが、勿論、聖書にはそういう名前は出てこない。

・私は、何もムキになって「神は悪魔を創造しなかった。天使から勝手に悪魔が出来た。」等と言う必要はないと思う。全てのものが神の創造物であれば、「悪魔も悪霊も神が創られた」でいいだろう。人間の浅知恵で「神がそんな変なもの創るわけない」と思う必要もない。この世には地震などの災害も疫病の病原菌もあるが、それも神の創造されたものであるのと同じだ。旧約聖書にヨブ記というのがあって、その結論がそうなのだが、神の創造された世界の全てのことの意味など人間には分かるよしもない。神は、人間を災害や疫病にも、悪魔や悪霊にも翻弄さらされるこの世に置かれたのだ。しかし、決して置いてきぼりにはされていない。そう信じる中で、神とどう関係して生きるのかが問われている。それが人間という存在だと思う。

 

 であれば我々は、災害や疫病があることを前提にそれに負けないように生きるのと同じように、悪魔や悪霊もあることを前提にして生きるべきではないだろうか。
・ところが、我々は災害や疫病なら多少とも分かっているつもりだが、悪魔・悪霊となると、良く分からない。冒頭に述べたとおり、「オカルト的」、「非科学的」「中世のよう」と拒否感を感じる人もいよう。しかし所詮、悪魔や悪霊等というものは、超常現象を研究する学者が多少研究した処で一気に解明されるものでもないし、それこそ神様と同様、基本的には人知を超えたものであろう。

・それでも聖書が悪魔・悪霊ということに強く触れているのだから、決して避けずに、それぞれの人のイメージでとらえようとすればいい。何も黒い体でニッタり笑うような悪魔が実際にいるなどと思わなくて良い。むしろ人の悪しき念が凝縮され強くなって「悪い念の塊り」としてこの世を漂っているといったイメージでもいい。
・要は、聖書にあるとおり、我々人間の思いを越えて、「悪魔的な力」が我々にも及ぶことが多いにあり、我々を罪・邪悪な方向に導くこともあると思う。またこの世で、不正や戦争等の悪なるものがいつまでも続くことについても、「神様の力があるのに、なぜ悪が滅びない?」等とザビエルにでも聞きたくなる質問を心に浮かべるよりも、不正や戦争が絶えない背後に、あなたの思い浮かべた何らかの「悪魔的な力」が働いていると考えてはどうだろう。

・そこから私たちの新しい生き方が生まれてくると思う。一人ひとりの生き方としては、パウロの言うように信仰を武具として身につけ、神様に「そのような力から守りたまえ」と常に祈って生きるという生き方。更に、社会においては、社会の悪と戦う人間として用いてくださいと神に祈って生きる生き方だ。

 

     だから、結論としては、私たちの信仰が、「悪魔的な力」の存在を想定せず、単に「神と私の二人のラブラブ関係」みたいなものでしかないのでは、聖書が本当に指し示す信仰ではないように思う。聖書の示す信仰とは、悪魔の正体は分からなくても「悪魔的な力」の存在をも信じ、だからこそ、自分の心の中でも、社会の中でも悪魔に負けないよう、祈りつつ神と共に生きる者となろうとすることだろう。私はそう思う。      Nat

 

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