♪♪ NATの独り言 (心・ジャズ)

生きていく上で信じてること。大好きなジャズのこと等

2017年04月

なぜ、日本でキリスト教は流行らないのか?? - その(3)

 続き・・
【法華経系もキリスト教も信じられないという大半の日本人に対して】
 

仏の力で私たちの人生が変わり救われ得ると信じる1700万人の法華経系の信仰を持つ日本人、そして、キリストを信じることで同じく変わり救われ得ると信じる100万人のクリスチャン。それ以外の1億人の日本人の大半は、「現代のこの世で、仏なりキリストなりの力が、物理化学の法則を越え、超自然的に私たちに働くことなんて、とても信じられない」という事なのであろうか。何となく「死んだお祖母ちゃんが、あの世から見ていてくれる」程度の思いまではいいが、仏や観音様や、あるいはキリストの力を本気で信じて、そういう宗教集団に属するのは、法華経系であろうがキリスト教の教会であろうが、ゴメンである、ということなのだろう。そういう人たちに、私たちは何を語れるのであろうか。それについては、私は以下のとおりと思う。 

1.科学が発達したから「神の業」の領域は小さくなったのか?

 ・確かに、昔は雷も火山も疫病も神の怒りと解釈した人たちがいた。そうであれば、雷から逃れるにも神のご加護が必要であり、疫病が治るのも神の力頼みとなる。

 ・しかし、現代人は、雷は電気、疫病はバイ菌・ウイルスと理解しているから、「神の出番」はもう殆どないということになる。というか、「神などいない」、「いたとしても、遠くにいるだけで、物質の物理化学の法則が支配するこの世において、神の業と見做せるものはない」という考えにまで至るのである。

 ・これに対し、私の理解する現代科学は、人間の認識の及ばない広大な世界への入り口を発見してきていると思う。つまり今や科学は、雷の電気を調べる電気工学や、疫病のバイ菌を研究する生物学等だけの領域から大きく発展してきている。前にも書いたが、量子理論は、光子から構成されている人の意識が、脳の神経の働きとは別に機能する存在になっている可能性を示してきている。また宇宙も、単純な「3次元+時間軸」だけではないという宇宙理論も提唱されてきている。むしろ、人間の理解している科学なんてものは、宇宙全体の中ではほんの小さな部分でしかないことが、いよいよ分かってきているということだろう。アイザック・ニュートンは、18世紀に彼自身が大きく拡げた人類の科学的知識にも拘わらず、人類の知っている知識は、真理の大海を前に、赤子が砂浜の砂粒を拾っている程度に過ぎないと言った。科学の最先端を知る現代人は、むしろ科学と神の関係について、ニュートンの頃より更に謙虚になってきているとも言えると思う。

 ・この点は、科学というと電気工学や生物学の類と思う人には、説明しづらいが、私は以上の通り思う次第だ。だから、科学の進んだ現代では、現代なりに、科学と神の領域の両立はあり得ると私は主張したい。 

2.ペテロやパウロに働いた神の力は、その後どうなったのか? 

 ・聖書、特に新約聖書の使徒言行録では、普通の人間であった弟子たちが、神からの力で、奇跡を含めて、大きな力を発揮したことを記録している。

 ・私は、そういう話を、教会の特に子どもたちや、教会に来始めた大人に話すのだが、私が力を込めて話すことは、単に「使徒言行録に書かれているとおり、ペテロやパウロには神の力が働き奇跡すら起こせたのです。だから、皆さん、それが今も続いていると信じましょう。」ということだけではない。つまり、「聖書に書かれているから、そのまま現代でも続いていると信じなさい」ではないということなのだ。

 ・私が語るのは、「同じ力が、今も生きて、このような私の上にも注がれている。そう思う以外にあり得ない、私の生きた人生の道筋があるのです。私は、今も生きて私の中におられるキリストによって、このように変えられてきたのです。そう信じるしかない私なのです。」という「私」を語るのである。パウロだって、最初は否定していたキリストの力を自分が受けたからこそ、「自分に働いたキリストの力」を、死ぬまで語り続けた。今の時代にそれを受け継ぐ私たちは、それぞれ自分に働くキリストの力を語るのである。それにより、聖書の伝えることを「現代化」するのであり、それが非常に大切なのである。 

以上の二点、それに基づく語り掛けを、皆でもっともっと続けることで、キリスト信仰は、まだまだ日本でも受け入れられるのではないだろうか。私はそう思う。  Nat



・・・・2017年7月20日の以下「その4」に続く。https://livedoor.blogcms.jp/blog/iamnat/article/edit?id=52042753

 

なぜ、日本でキリスト教は流行らないのか?? - その(2)

 前回、日本ではキリスト教の人が人口の1%程度しかおらず、キリスト教が極端にマイナーという、世界的にも変わった国になっている、その理由を書いた。簡単に言うと、(1)特に戦後、伝統仏教に飽き足らぬ現代日本人が心の救いを求めて参加したのは、圧倒的に法華経系の新仏教(創価学会、霊友会・立正佼成会など)であったこと、(2)一方のキリスト教は、そもそも外来の宗教で、明治の初めの頃の「舶来指向」の時は別にして、そもそも馴染みにくいのに加えて、変にインテリ的な説き方をしてしまっている事も多い事、そして「人間神=キリスト」というものを受け入れにくいと思う人が案外多いことが原因である。        

【法華経系現代仏教とキリスト教】 

この点をもう少し掘り下げるため、法華経系の新仏教とキリスト教を対比させて見てみよう。但し、お断りしておくが、私は仏教系については外から少し眺めているだけだから、以下は「単純化し過ぎている」と仏教関係者から怒られるかも知れない。しかし、仏教系に全く敵意はないのでご容赦願う。 

法華経系の仏教といえば、昔から日蓮宗があり、その分派で日蓮正宗もあったが、そこから出家しなくてもいい在家の現代仏教が生まれた。日蓮宗からは霊友会・立正佼成会、日蓮正宗からは創価学会が出た訳である。出家しなくても在家でいい点では、キリスト教も同様に「在家宗教」なので、この点では、キリスト教も負けていない。

 次に法華経をベースとするこれらの現代仏教の中身だ。創価学会の方が元々の法華経仏教に近い。一方、霊友会・立正佼成会は日本の祖先霊信仰の方向にシフトした。だから主に創価学会系の方で簡単に言うと: (1)まず、釈迦の宇宙哲学「宇宙全体に存在する大きな命と我々個々の命は本来一つ」という処から始まり、個々の命がそのことを悟ることで誰でも仏に成れるというのが基本。(2)しかし、それだけでは何をしていいのか分からないので、「仏・法・僧」に“帰依”した生き方が勧められる:①「仏」は釈迦を中心に、人間が仏になりかけている菩薩が無数にその周りにいる。特に法華経がスーパー神通力とお奨めなのが観(世)音菩薩、その名を唱え祈ることで道が開けるという。②「法」は宇宙の真理だが、それでは難しいので、「お題目」として「南無妙法蓮華経」という“呪文”にして唱えるのが入り口。また、目からの入り口としては、釈迦の周りに菩薩がいる曼荼羅絵、特に日蓮宗では文字曼荼羅(文字で書いた曼荼羅)を有難く眺めることが推奨される。③「僧」はお寺組織に忠実に仕えましょうということだ。そして、ユダヤ教・キリスト教の十戒と類似の10個の戒律みたいのもあって、殺生しない等の正しい生き方が薦められる。それらを全てする生活していくことで成仏するということであり、大きな功徳・恵みが与えられるということだ。 

キリスト教との対比でこれを見ると: 

1)宇宙哲学: 宇宙の命と個々の命の同一論。これは非常に魅力的な哲学だ。聖書ではまず人的な絶対神が初めにいる、そしてその神が宇宙・地球・生命を創造するという宇宙理解だ。だから、キリスト教ではまず人が絶対神を信じるかどうかが問われるが、「宇宙のどこかにいる人的な神さま」のイメージが幼稚で嫌だと思う人もいるだろう。その場合、釈迦が言ったとおり「神様等というものは人間には具体的には認識できない」のだから、仏教同様、「神=宇宙の精神、我々人間の命は神の命を分けてもらったもの」というイメージでもいい。聖書でも、最初の人アダムは、素材としては土(物質)だが神が息(神からの命)を吹き込んだとある。だから、日本では、神と命の関係は仏教的な宇宙観で説明してもいいと私は思う。結局、本質では変わりないからだ。 

(2)何にすがるか?: 

・仏教の場合、法華経でも教理は相当にごちゃごちゃして、色んなものが登場する。世界の中央に釈迦(仏)、周りに多勢の菩薩(特に観世音菩薩)、そのどれかにすがれるというのも有り難い。法華経そのもの、そしてそれを呪文化したお題目も有り難い。文字曼荼羅も有り難い。それらを皆有難いと思い、すがって生きる(それを“帰依”するという。)その上、僧・寺に仕え、更に殺生などしない清い生活をする。

・これに対し、キリスト教は、とにかく「イエスキリストを神として信じ切って生きましょう。以上終わり。」である。イエスキリストの昇天の後、イエスキリストの「代わり」に「聖霊」なるものが信じる個々人に与えられたとあるが、それも含めて、天の父なる神が地上に送ったイエスキリストであり、その代わりの聖霊である。キリストへの一点張り。これがキリスト教。

・聖書も「ありがたい」お経というより、キリストを指し示すものである。呪文・お題目的には「主の祈り」がちょっと近いが、それもキリストが教えてくれたもので、要するにただただキリストなのである。また愛に生きる「新しい生き方」は、キリスト信仰の必然的結果でそうなるもので、この点、正しく生きることも成仏の条件の仏教とは違う。 

・つまり、キリスト教の場合、天の父なる神は、宇宙の支配者だが、超偉大な人間っぽいイメージになる。そしてその神が地上に送った救い主も「人間の形になった神=キリスト」である。というような「人間イメージの神」をタダひたすらに信じ、すがって生きるかがキリスト教。一方、仏教の場合、とにかく神的なものが仏の周りに無数にいて、「数打てば当たる」みたいにどれかが自分の救い神になりそうな気もする。法華経、お題目や曼荼羅など「有難い対象物」も分散している。そして生活の規律もあり、寺への寄進もあり、いろいろ条件があるから、人により、自分の“感覚に合う”条件を重要視して、自分は救われると思えばいい。つまり、どこかで自分の心にひっかかればいいという在家仏教。これに対し、キリストを神と信じる一点張りのキリスト教、どちらが日本人の心情に向くかということなのである。自然体では、前者の方が日本人に向いているのであろう。日本人は「八百万の神」の文化もあり、「色々なものが散りばめられている」のが性に合う面があると思われる。一方、特に「生身の人間」イエスが神であった、そしてそれの一点張りというキリスト教の信仰は、文化的にも、案外、受け入れにくいこともあろう。逆に観音様などは、最初から人間離れした“想像上の神”で、却って受け入れやすいということもあるのではないか。 

しかし、キリスト教はキリスト教。仏教の真似して変えてしまってはダメだ。キリスト教の本質は単純明快に「キリストへの一点張り」なのだから、臆せず、躊躇わず、これを力強く改めて打ち出すしかない。遠藤周作さんのように、インテリの変な弱さで「神は沈黙したもう。そして神の送り給う救い主のキリストは、ただただ力なく弱々しい。しかしキリストは我々と一緒に苦しんでいて下さるのである。」みたいな、“気休めの神様”的な話に留まっているのは違うと思う。使徒ペテロやパウロたちは、彼らに与えられたキリストの力(=聖霊)により、以前の彼らとは全く違うようになり、力に満ち多くの奇跡も成し遂げ、最初のクリスチャン集団を大きく引っ張っていったと、聖書に書かれているではないか。日蓮も仏の力により多くの法難を奇跡的に逃れたかも知れないが、現代のクリスチャンも又、キリストの力により、新しい人に変えられ、場合によっては奇跡的な力や道を与えられるのである。それはキリストの名を唱えたとたんに、癌が治るというようなものではないかも知れないが、キリストを信じる時、キリストは確実にその人に宿り、その人を新しく変えるのだと私たちクリスチャンは強く証しすべきであろう。前回書いた通り、それがどんなにオカルト的に聞こえようと、それが私たちの信じることなのだから。 

だから、キリスト教の指し示すものは、無数の菩薩でもない、お経もお題目も曼荼羅もなくていい。寺への寄進も関係ない。行いの良し悪しも関係ない。ただただ、イエスキリストを自分の神と信じる、信じ切るだけ。それだけで、私たちの人生は大きく変わる。この信仰こそが、仏教にはない強い信仰なのである。キリスト教は、日本でも改めて、そのようにシンプルに力強く証しするものでありたい。私はそう思う。  

しかし、現代人の多くは、菩薩なりキリストなりの力という話に対して、非科学的と思ってしまい、そこでストップしてしまう。そのような「科学的」な現代日本の中での、我々の力強い証しはどうあるべきか。これを最後に、その(3)で書きたい。    Nat

 

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