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【法華経系もキリスト教も信じられないという大半の日本人に対して】
仏の力で私たちの人生が変わり救われ得ると信じる1700万人の法華経系の信仰を持つ日本人、そして、キリストを信じることで同じく変わり救われ得ると信じる100万人のクリスチャン。それ以外の1億人の日本人の大半は、「現代のこの世で、仏なりキリストなりの力が、物理化学の法則を越え、超自然的に私たちに働くことなんて、とても信じられない」という事なのであろうか。何となく「死んだお祖母ちゃんが、あの世から見ていてくれる」程度の思いまではいいが、仏や観音様や、あるいはキリストの力を本気で信じて、そういう宗教集団に属するのは、法華経系であろうがキリスト教の教会であろうが、ゴメンである、ということなのだろう。そういう人たちに、私たちは何を語れるのであろうか。それについては、私は以下のとおりと思う。
1.科学が発達したから「神の業」の領域は小さくなったのか?
・確かに、昔は雷も火山も疫病も神の怒りと解釈した人たちがいた。そうであれば、雷から逃れるにも神のご加護が必要であり、疫病が治るのも神の力頼みとなる。
・しかし、現代人は、雷は電気、疫病はバイ菌・ウイルスと理解しているから、「神の出番」はもう殆どないということになる。というか、「神などいない」、「いたとしても、遠くにいるだけで、物質の物理化学の法則が支配するこの世において、神の業と見做せるものはない」という考えにまで至るのである。
・これに対し、私の理解する現代科学は、人間の認識の及ばない広大な世界への入り口を発見してきていると思う。つまり今や科学は、雷の電気を調べる電気工学や、疫病のバイ菌を研究する生物学等だけの領域から大きく発展してきている。前にも書いたが、量子理論は、光子から構成されている人の意識が、脳の神経の働きとは別に機能する存在になっている可能性を示してきている。また宇宙も、単純な「3次元+時間軸」だけではないという宇宙理論も提唱されてきている。むしろ、人間の理解している科学なんてものは、宇宙全体の中ではほんの小さな部分でしかないことが、いよいよ分かってきているということだろう。アイザック・ニュートンは、18世紀に彼自身が大きく拡げた人類の科学的知識にも拘わらず、人類の知っている知識は、真理の大海を前に、赤子が砂浜の砂粒を拾っている程度に過ぎないと言った。科学の最先端を知る現代人は、むしろ科学と神の関係について、ニュートンの頃より更に謙虚になってきているとも言えると思う。
・この点は、科学というと電気工学や生物学の類と思う人には、説明しづらいが、私は以上の通り思う次第だ。だから、科学の進んだ現代では、現代なりに、科学と神の領域の両立はあり得ると私は主張したい。
2.ペテロやパウロに働いた神の力は、その後どうなったのか?
・聖書、特に新約聖書の使徒言行録では、普通の人間であった弟子たちが、神からの力で、奇跡を含めて、大きな力を発揮したことを記録している。
・私は、そういう話を、教会の特に子どもたちや、教会に来始めた大人に話すのだが、私が力を込めて話すことは、単に「使徒言行録に書かれているとおり、ペテロやパウロには神の力が働き奇跡すら起こせたのです。だから、皆さん、それが今も続いていると信じましょう。」ということだけではない。つまり、「聖書に書かれているから、そのまま現代でも続いていると信じなさい」ではないということなのだ。
・私が語るのは、「同じ力が、今も生きて、このような私の上にも注がれている。そう思う以外にあり得ない、私の生きた人生の道筋があるのです。私は、今も生きて私の中におられるキリストによって、このように変えられてきたのです。そう信じるしかない私なのです。」という「私」を語るのである。パウロだって、最初は否定していたキリストの力を自分が受けたからこそ、「自分に働いたキリストの力」を、死ぬまで語り続けた。今の時代にそれを受け継ぐ私たちは、それぞれ自分に働くキリストの力を語るのである。それにより、聖書の伝えることを「現代化」するのであり、それが非常に大切なのである。
以上の二点、それに基づく語り掛けを、皆でもっともっと続けることで、キリスト信仰は、まだまだ日本でも受け入れられるのではないだろうか。私はそう思う。 Nat
・・・・2017年7月20日の以下「その4」に続く。https://livedoor.blogcms.jp/blog/iamnat/article/edit?id=52042753