本日(6月25日)、教会のジュニア・チャーチ(9時からで、子どもたちや、まだ教会に不慣れな大人たち中心の教会)の礼拝で、旧約聖書の「バベルの塔」の箇所(創世記11:1-9)のお話をする役目があった。以下はその要旨である。
『 最初の頃の人類はまだ少人数の村落で分散して暮らしていた。ところが、シンアルの地(今のイラク・メソポタミア地方)に東から移住してきた人たちは、その肥沃な平野に着眼、そこに都市国家を建設しようとした。そして彼らはレンガを焼く技術、アスファルトを作る技術を持っていたので、それを利用して、都市の中に天に届きそうな塔を建設、それで多くの人を惹きつけて大都市を作ろうとした。これを見た神は、このまま放置すると人間のすることへの制御が効かなくなるとして、それまでは一つの共通言語であった人間の言語を乱され、都市を建設中の人々が互いにコミュニケーションできなくされた。そこで、人々は建設を放棄し散って行った。
以上が聖書に書かれた「バベルの塔」の物語である。この箇所から、礼拝でお話をするのは、私としては初めてであったので、良く良く読んで考えた。すると、なぜ神が人々の建設を止められたのか? 疑問が湧いてきた。人類が分散した村落から、農耕文化で定住し始め都市国家を形成してきたのは、文明の自然な流れである。なのに、神はそれを良くないとして阻止されたのか? この疑問に対し、昔からよく言われることは「都市国家そのものは悪くなくても、天に届くような塔を作ったのがいけなかった。神への挑戦である。だから神は怒り、塔を破壊した」という解釈だ。しかし、聖書には、神が塔に怒ったとも、塔を破壊したとも書いていない。
そこで聖書を読み返すと、ある事が浮かび上がってきた。塔を作る人の会話だが、「さあ天にまで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう。」といっている。この会話には「神」への思いは出てこない。もし、この人たちが神を信じて生きる人たちであったなら、まず、シンアルの肥沃な平野に定住出来たことを神に感謝したであろう。そして、そこなら大勢の人たちの住める素晴らしい都市が作れると思うなら、その都市建設のことを神に祝福して下さるように祈り、また、レンガやアスファルトの技術を備えて下さった神に感謝しつつ、建築する塔についても神が祝福して下さることを祈ったであろう。しかし、実際にバベルの塔を作った人たちの心には「神」はいなかったのである。人間だけの思いで、人間同士だけでコミュニケーションし、塔を中心とした都市を作り、多くの人を惹きつけようとした。神が止めようとされたのは塔ではない。止めようとされたのは、神を一切思わぬ人の心であり、そういう心に基づく人間のコミュニケーションだったのだ。
ここで私の人生を振り返ると、若いころに洗礼を受けた私だが、18歳で東京に出てきてから30歳くらいまでは実質的に教会には通わず、就職後は仕事一筋であった。バベルの塔を作ろうとした人と同じく、私の心に神は殆どいなかった。それから、ある時神により教会に引き戻されたのだが、そこからの時期は、週日は仕事人間、つまり心に余り神のいない人間。日曜には急に教会で神のことを思う、そういう別々の二人がいるかのような生き方になった。しかし、何時か気が付くと今の私になっていた。毎晩、仕事のことも神に祈る。「神よ、明日のあの難しい仕事を祝福してください。それがすべてあなたのみ心に適うよう導いてください」と。私は、その前の二人に分離していた私ではなく、ついには一人の一貫性のある人間に変えられて来た。そして人生を、(かっこ良く言うと)まるごと神にささげて生きる生き方に変えられ導かれてきたと思う。
私たちのこの世の営みでは、それぞれが小さな「バベルの塔」を作りながら生きている。しかし聖書のバベルの塔の物語が私たちに本当に語りかけていることは、「私たちの作ろうとしているものが、どのようなバベルの塔であっても、毎日神に祝福を祈りながら作り上げていく時、それは結局は神さまのみ心に沿うものとされていくのだ」ということだろう。私たちは、そのようにして、神に「全てを祝福してください」と祈りながら、神に導かれ支えられて生きる、そのような恵みの人生に、誰でも招かれているのである。それを心から信じて生きるものとなりたい。』
以上でした。 Nat