先般、私の教会の「ぶどうの木グループ」という、まだ教会に馴染みの少ない大人も入りやすい、日曜9時からの礼拝で、私が「聖書からのメッセージ」(お話し)の当番だった。聖書の箇所は、旧約聖書の出エジプト記14章、有名な、モーセらの出エジプト逃避行に際し、神が海を割って道を作ったという奇跡物語の所だった。私のメッセージの要旨を記載させて頂く。  Nat
 

『 海を割る神: 今日の聖書の箇所は、エジプトで奴隷状態になっていたイスラエル民族が、神さまがモーセをリーダーとして選び、エジプトから脱出できるようにされたという物語。特に今日読んだところの、神が海を割って道を作ったという奇跡の部分は余りにも有名。そして、ここの所は、大昔から、逃避行のルートはどこか?とか、割れた海の場所は?とか、喧々諤々議論されてきた。また、海が割れた奇跡も浅い水の所で風が吹き水が偏ったのでは、とか様々な解釈がされてきた。しかし、そういう議論はもっぱら我々の知的好奇心向けのものである。エジプトから脱出したイスラエルの民が、この聖書の部分を書いて、子孫に、あるいは後の世の我々に、どうしても伝えたかったことは何か? それは、彼らの信じた「神と人の関係」なのである。

 神は、海を割る「奇跡」の前から、それぞれの時点でその都度、イスラエルの人たちに先回りして働きかけ、係わって来られている。出発の日に、神は「今だ」と民に働きかけた。民は従った。そして通常エジプトからイスラエル地方に行くのに通るペリシテ街道は、途中で種々戦いが必要なので、神は民を敢えて荒野の道へ誘導された。民は不安に思ったであろうが従った。荒野を進んでいくと、今度は突然神は、引き返して荒野と海に挟まれた海辺に陣取りなさいと言う。そんなことすると、追手のエジプト軍に海辺にまで追い詰められ、皆、海に追いやられて死んでしまうではないか?というと、神は、その時こそ、自分が海を割って道を作ると言われる。果たして神の言われた通りになった。そして民は海の道を逃れ、エジプト軍は海に飲み込まれるという結末である。

 この話を書いた人たちが後の世に言いたかったことは、いかに神がいつも具体的に圧倒的な力で、彼らに係わり、彼らの道を切り開いて下さったか、そして、いかに彼らはそういう神を信じ、身を委ねたということだ。

 人間にとって、神というと、遠く宇宙の彼方で「宇宙の心」として我々人間を見つめている存在と思う人もいる。あるいは、神は、いちいち我々の道筋に手を加えて介入まではしないまでも、我々のそばに寄り添ってくれていると思い、慰めを得る人もいよう。あるいは、そんな神では満足できない人は、むしろ、アラジンのランプの魔法使いのように、願いごとを次々適えてくれる「御利益神」を期待するかも知れない。しかし、これらは、全て、まず我々人間がいて、人間の観点から色々神を想定しているに過ぎない。これに対して、出エジプト記を書いた人たちは、「まず神がおられて、それで人がいる。神は、人間の思いも理解も遥かに超えて、いつも思いがけないような道筋を示し、道筋を途中で大きく変え、必要ならば、圧倒的な力で海を分けてでも道を切り開いてくださる、それが神の人への係り方だ。私たちは、唯々、そのような神を信じ、祈り、身を委ねて歩む、それが私たちの生き方だ。」と言っているのである。

 私たちクリスチャンも、時に、神って遠いところにいるだけ? 横に寄り添ってくれているだけ? アラジンのランプみたいに我々の願いをただちに叶えてくれないかしら?と思ったりもする。しかし、出エジプトの聖書は、「神は、そんなんじゃない。我々の思いを遥かに越えて、私たちを力強く導き、必要な時は奇跡すらも起こして道を切り開いてくださるのだ。」と、我々に語りかけている。

 私も、そういう信仰に近い形で真剣に祈ったことがある。まだ母が存命の頃、突然、心臓大動脈瘤が見つかり、しかも破裂寸前。病院に緊急入院、特別に翌日の夜に大手術。そうなると、どういう展開になるか全く分からない中で、出エジプトのモーセたちのように、もう、唯々、人間の思いも予想も越えて、この世の道筋を変える、時は海をも割る圧倒的な力でそうされる神に、ひたすらに祈り、委ねるしかなかった。
 そこで、手術の最中、私は待合室から抜け出して、外庭の茂みの中にうずくまって、1時間以上祈り続けた。出エジプトの民を導いた神、人間の思いを越えて人間の道筋に介入する神に祈ったのだ。祈りを終えて戻ると、母は手術から生きて帰還した。手術で胸を開けた時とほぼ同タイミングで瘤は破裂したよしで、まさに奇跡の手術タイミングだったそうだ。そして、後で知ったことが加わる。その夜は水曜夜で、教会では聖書研究祈祷会があり、教会の仲間が母のことで熱烈に祈ってくださっていたのだ。そのことを、後で知った。神は、動脈瘤破裂と同時の奇跡的な手術のタイミングを実現されたのに加えて、教会の仲間が「奇跡の友」となれるよう、水曜の夜を選んで下さったのだと思った。感動的な体験であった。

 今日のこの話を聞いているここにおられる皆さん。皆さんも、モーセ達が海辺に追い詰められたように、何か思い悩んだり、壁にぶち当たっているかも知れない。そこで、神さまというと、遠くにいるだけ? 寄り添ってくれているだけ? それより、アラジンのランプみたいな神がいてほしい、等と思うかも知れない。しかし、今日の聖書は、皆さんに語り掛けている: 「神はあなたの思いを超えて、思わぬ道を切り開き、必要なら海を割ってでも、あなたを導こうとされている。そしてそれに身を委ねるあなたに対し、神は“決してあなたを見捨てない”と言われている。」これが今日の聖書のみ言葉からの、あなたへのメッセージです。』       以上