♪♪ NATの独り言 (心・ジャズ)

生きていく上で信じてること。大好きなジャズのこと等

2017年10月

希望の党のおもいつき政策「内部留保課税」:唖然

★ところで、希望の党の施策の中に「企業の内部留保への課税」なるものが入ったのにお気づきだろうか。

● 内部留保課税というと、「内部留保」というものに対する世の無理解・誤解から、世の中に様々なナンセンスがはびこるテーマなのだが、希望の党の中でも分かっている人は少ないのではないか。
(1)まず、今朝の テレ朝の報道番組でも、本件の解説で「内部留保=企業の貯金」等という超恥ずかしい誤解で解説していた。内部留保は配当後の利益の累積値である。そこから、例えば新鋭工場などへの再投資を積極的にすると、内部留保が全部、事業用資産の形になり、手元現金はゼロに近いという状況もあり得る。だから「内部留保=企業の貯金」は完全な誤解。そういう企業の内部留保に課税しても、投資に積極的な企業ほど苦しむ。(注:「現金-借入れ」/ 内部留保という比率を計算、それが50%以上の企業にのみ課税とかの工夫するならまだしも。)
(2)内部留保課税はここ2-3年、一部で提唱されては消えてきている問題の多い策だが、その狙いは通常、企業が内部に現金を蓄え、社員に給料を払うのをケチる、設備投資をケチるというのを、無理やりに税金で矯正できないかという発想である。希望の党の中で、これを思いついて掲げた人の狙いが給料なのか設備投資なのか分からんが、恐らく殆ど何も分からんままに、受け売りで書いただけだろう。
(3)内部留保課税は、法人所得に一旦法人税課税し、配当しなかった分にも累積ベースで二重課税する変なものだが、まず、それをしても、一義的には、促進され得るのは配当だけである。給料を多めに払わす為だけなら、給与を増やすと法人税も少な目に済むから、内部留保税などやらんでも同じ。あるいは奇策だが給与の損金処理率を1.3倍とかにするといい。また、設備投資促進は、内部留保税では一切促進効果ない。
● ということで、希望の党は、俄か仕立てだから、選挙は、政策なんか下手に掲げず、小池さんのスマイルイメージだけで勝負すればと思っていたら、「排除」発言でイメージは壊滅的に棄損。その上、言うに事欠いて「内部留保課税」が政策とは、私も唖然。そして、もう一つの具体的施策を見ると、何と例のまたぞろ問題多い「ベーシックインカム」。ダブルに唖然。もう、ほんとに知らないよ。  Nat

もう直ぐ選挙: 論点2「憲法改正」

★今回の選挙で論点の一つになる憲法改正への態度。話題の希望の党の公約では『国民の「知る権利」や地方自治などの明記を掲げたほか、自衛隊の存在も含め、9条改正の「議論を進める』とあり、目玉は自衛隊問題だが、地方自治とかもある・・ということのようだ。
● さて、私の憲法改正問題へのスタンス: 
(1)まず、現行憲法は戦後短期間で作ったこともあり理念と国の根幹のみを述べ後は法律で・・というスタイルだから、世界的にも異常なほど一度も改定されてきていない。逆に改定しないでも通用してきたのだ。そこで、それを改定しようという意見は、細かい実際的な不都合を言っているのではなく、専らイデオロギー・理念的に現行憲法ではどうしても不満ということを指摘することとなる。よって憲法改正議論は、憲法条文論の前に、すべからく、イデオロギー・理念論になる。
(2)そこでいきなり9条/自衛隊問題だが、私は9条の武力/戦力放棄につき「平和主義」の立場からこれを徹底墨守したい人であるが、自衛隊が専守であろうが「武力/戦力」であることは明らかで、憲法に矛盾し得ることもその通りと思っている。しかし、専守の自衛隊が多少とも憲法に矛盾していても、だからと言って自衛隊はヤメにしようという向きは実質全くない。つまり、プラグマチックに見ても改正の必然性は今も殆どない。ところが、集団的自衛権発動の新安保法を通してしまったため、「あれは違憲」と言われて悔しい安倍政権は、それなら憲法の方を変えようと、改正の声を強めている。
(3)そこでだ、私は9条への自衛隊書き込みも、もし今後、今のままの9条でどうにもこうにも支障が高まるような事態になれば、あり得るとは思っている。しかし、上記(1)で書いたとおり、憲法改正は、いかなるイデオロギー・理念でそうするのかが先ずもって肝要であり、安倍氏が信奉するイデオロギー・理念から出た改正提案には徹底反対する。別の人・政党の平和イデオロギー・理念から提案されたものであれば、真面目に検討・議論することはやぶさかではない。
(4)よって、結論: 希望の党の提案とおり、検討・議論には乗ってもいいかも知れない。しかし、希望の党自身のイデオロギー・理念は今不明。安倍氏と類似かも知れない。だから、簡単には乗らない。見極める。以上が私のスタンス。
(5)最後に憲法92~95条の地方自治: 確かに、特に92条の「地方自治の本旨」なるものがさっぱり意味不明とか、ここの部分はおざなりである。よって、改正はあり得るが、条文改正論の前に、それこそ先ず、道州制も含めた、地方自治のあり方(即ち中央政府のあり方)で国民的議論がないとおかしいが、そういう議論も意識も全く盛り上がってない。それを憲法条文改正にひっかけて試みるのでは、本末転倒であろう。    Nat

もう直ぐ選挙: 論点1「消費増税凍結と財政再建」

★今度の選挙の争点の一つ、消費増税凍結による財政再建の先送り問題。

● 私は前から、毎年の財政赤字(PB)15兆円とかを国債で補っているのが、超危険かというと、そうでもないという意見である。日本が倒産するかのように騒ぎ立てるF氏のような評論家もいるが、それはトンでもないことと思う。
● 増え続ける国債を日銀が買言支える資金は、高齢者を中心とする国民の金融資産が回り回っているものと、あとは日銀の ”印刷” するお金で構成されている。これからは日銀が印刷するお金の割合が増える。ここで、思考停止型・固定的反射反応の人は「そんなことすると超インフレになる」と言う。
● しかし、実は簡単にはそうならない。昔、突然、政府がお金を大量に発行した時、それが突然の大規模であったから、物品・サービスの供給が全く追いつかず一気に超インフレになった。しかし、今の日本の場合は、国債資金から対価が払われる物品・サービス供給者は、既に国関連の需要とその先行きを織り込み済みで供給力を用意しているし、これからもそうだから、供給不足によるインフレは起こりようがない。そして、供給者にとって対価支払いのお金が実gは印刷されたお金でも関係ない。お金はお金だからだ。
● むしろ、今のグローバル時代で、少なくとも物品は中国など含めて潜在過剰供給力が問題な位だ。更に、昔と違い、重要・供給の情報がネットで瞬時に広まるので、情報ギャップ起因のインフレも起こらない。だからこそ、米国FRBも、あれだけ金融緩和してもインフレにならない不思議な時代と言っているのだ。
● この他、国民一人あたりの国の借金幾ら論や、将来世代への借金押し付け論とかは、直感的に国民を心配させるセリフの常とう手段だが、(ここでは何故それがナンセンスか省略するが)、ペテンの類に近い。
● 勿論、お札を印刷して財政赤字の穴埋めすることは(1)支出の規律を徒らに緩めてしまうこと、(2)直ぐには超インフレにはならないにしろ安定性は低いという問題もある。だから、追々、景気を見つつ、消費税増税に限らないが歳入を改善することも必要だ。しかし今それを急ぐ必然性は全くない。
● お札を印刷してバラまく事について、どういう場合なら超インフレになり、どういう場合ならならないのか(即ち供給のボトルネックとの関係)を正しく解説し、政府施策に繋げるのも専門家の仕事だが、米国などの一部の学者を除き、日本の偉い先生は、その点、問題を避けていると思われる。
⇒ 結論:こと、消費増税凍結問題に関しては、小池「希望の党」以下、野党の意見に、私は組みする。(次回は憲法改正問題について述べる。)    Nat

※追記:
 ★上記で省略した、いつも出てくるペテン的論議二点につき補足:
(1)国債での国の借金は国民一人あたり800万円: 財務省トップの麻生さんも流石に指摘の通り、国債は実質、裕福な国民が貧民にも国のサービスが回るように貧民に貸しているのと同等。つまり国民一人あたり平均800万円の貸付金という資産を持っていると同時に、平均800万円の借金をしているということ。全くの無意味論議。 
(2)子孫に借金返済負担を押しつけるもの: このままでも国債の返済・償還は基本的に新しい国債発行して回している。実質、永久債、永遠に返さなくてもいい国債と思えばいい。そしてそれに貸しているのも国の一部である日銀だから、気になるなら、国の中で債務・債権を相殺して帳消しにてもいい。でもそれやると、日銀が債務超過に見えてカッコ悪いからそうしないだけ。    Nat

旧約聖書シリーズ(2):サムソンの話

 旧約聖書のお話しシリーズ、その2。

 旧約聖書に「士師記」という、古代イスラエルがまだ王国として王の支配になる前の時代を治めたリーダー“士師”(しし)の物語がある。その士師の中でも一番有名な一人が怪力男サムソンだろう。旅行カバンのブランドである「サムソナイト」の語源にもなっているのが、サムソンだ。

 まずサムソンは、長らく不妊であったお母さんに神のみ使いが臨み、神のみ心により特別な人間として生まれた。彼には最初から神の働きかけがあったことになる。神がサムソンに与えた特別な役割は、髪の毛を一切剃らないで清らかな生活をする限り、彼に神からの特別な力を与え、その当時イスラエル民族を抑圧していたペリシテ人からイスラエル民族と解き放つ先駆者にするというものだ。

 大人の男になったサムソンは、神からの力で人間離れした怪力男になる。そして、イスラエル民族をペリシテ人から解き放つ先駆的な彼の役割が始まるのだが、彼はそういう崇高な役割を全く意識していないところが、この物語のミソである。何と、サムソンは敵であるペリシテ人の女に恋をし、両親の反対を押し切り、女のところに迎えにいく。途中で襲いかかろうとしたライオンがいたが、神が激しくサムソンに霊の力を注いだので、彼はライオンを手で引き裂いてしまう。ペリシテ人のところで、女を娶る宴会。そこで彼が出した謎かけクイズがきっかけになって、わやくちゃになり、彼はペリシテ人を30人打ち殺すことになるが、それも神が彼に力を与えたものであった。しかし彼は人間の思いとして、ペリシテ人を憎み殺しただけであった。結局、そのペリシテの女とは結ばれなかったのだが、その後もリベンジでサムソンはペリシテ人の畑を燃やしたりもする。

 かくなる暴れ者サムソンを、結局、イスラエル民族は、捕らえてペリシテ人に引き渡すのだが、そこでも神が激しく彼に霊の力を注ぎ、彼は1000人のペリシテ人を殴り殺す。こうやって、神は、本来は清らかな人になるはずだったが、暴れ者・ならず者・女好きになってしまったサムソンをも用いて、イスラエル人の解放の手を打つのである。そうやって20年の間、彼はイスラエルを率いた。

 その後、彼はペリシテの町であるガザで遊女のもとに行く。ペリシテ人が彼を捕えようとするが、町の門とその柱を抜いて山にまで運び、悠々と帰る。

 次に彼はデリラという女に惚れる。明確には書いてないが恐らくペリシテ系の女であろう。ペリシテ人はデリラを買収し、サムソンの力の秘密を探る。サムソンはデリラに、髪を剃らないことが怪力の秘訣であることを教えてしまい、膝枕で寝ているサムソンは髪の毛を剃られてしまう。かくして怪力喪失である。

 ペリシテ人に力なく捕らえられ、目をえぐられ牢屋に入れられたサムソン。最後にはペリシテ人の大きな建物の中で、さらしものにされた。力を失ったサムソンに、もう役割を終えたかのように、特に神は何も働きかけされなかったのだ。しかし既に髪の毛は再び伸びてきていて、そこに神の最後の働きかけの伏線がある。若い頃は、彼の狼藉の限りを神が一方的に用いて、彼に激しい霊の力を与えてきた神であるが、サムソンは、それを一切神の力などとは思わず、自分自身の怪力と思って、思う存分、ペリシテ人を殺しまくってきた。結果的にイスラエルは解放に向かった。ところが、今や力を失い、目も失い、何もかも失ってしまったサムソンである。しかしその時にこそ、彼は生まれて初めて、本気で神に祈ったのである。「神よ、今一度だけ私を思い起してください。神よ、今一度だけ私に力を与えてください。」と。神は祈りに応え給うた。神から与えられた最後の力を振り絞ったサムソンは、ペリシテ人のその巨大な建物の柱を手で押す。建物は崩壊し、サムソンも死ぬが、サムソンが元気な頃に殺したペリシテ人よりもはるかに多数のペリシテ人がそれで死んだ。というのが、聖書のサムソンの話、あるいは「サムソンとデリラ」という映画にもなった話だ。

 私は、この話から、今度の日曜に、教会の幼児とその父母のグループでお話しする。まだ話し方は考えている最中だ。

 この話を読むと、前回書いたモーセの為に神が海を割られた話では、海を割る奇跡の余りにも嘘っぽい神話のような話の内容に意識が行きがちであるが、サムソンの話では、神の霊の力もさることながら、それにより、ペリシテ人(今のパレスチナという地名につながる)が多数殺害されるという、おどろしさにも意識が行きがちである。

 しかし、この聖書の話が真に我々に語りかけるメッセージは何か? それは、神は、狼藉者のサムソン、女好きのサムソンをさえ用いて、神の霊の力を注ぎ、神の御業を実現されるのだということが一番目のメッセージ。私たちも、神の御業に全くふさわしくない者であろうが、そういう私たちをこそ、選んで神は用い給うというのだ。

 そして、サムソンは力に満ちている時は、神の力に気づかず、やりたい放題をする。しかし神はそのようなサムソンの思いをはるかに越えて、サムソンを用いる。そして、サムソンが力を失い、視力も、愛する者も、全て失い、さらしものになったその極限の状況で、神はサムソンの心を遂に真に神に向けさせるのである。サムソンから、生まれて初めて出た、ほとり走るような神にすがる祈り。「これまでのは、全て貴方の力だったのですね。私はそれに気づきませんでした。何と罪深い存在であったのでしょう。神よ、そういう私を憐れみ、赦し、あと一回だけ、あと一回だけ、死ぬ前に、あの、あなたの力を私に戻して下さい。」と涙ながらに祈ったのである。その時にこそ、元気な時のサムソンに対する以上の力を神は注ぎ、神は祈りに大きく応えられたのである。元気な時はハチャメチャな人生。神の力には気づかない。全てを失い死ぬ直前に、サムソンは、神と人との本来の関係に立ち返ったのである。これがこの話の第二のメッセージというか、聖書の最大のメッセージである。神は人を、必ずしも「正しい人、善なる人」にされようとはしていない。ハチャメチャな狼藉者、女好きのサムソンをも愛して縦横無尽に神の為に用い、そして最後に、みじめに完全無力になった時にこそ、本当に神に立ち返るサムソンになるように導いて下さったのだ。サムソンが人生で最高に神とのつながりを感じ、神に感謝したのは、この建物を壊して自分も死ぬ瞬間であった筈だ。神と人との関係は、そういうものなのだ。「神とは疎遠でも良き人間」よりも、「神に憐れみを乞わざるを得ぬ人間」が、神に身を委ね、神を信じ切って生きる。我々もそういう神との関係に招かれている。

 というのが、この聖書からの、我々への最大のメッセージであろう。・・・・あとは、これを幼児にも伝わる言葉にするだけだ。それも神さまがそうさせて下さるだろう。感謝。アーメン。    Nat

 

 

 

 

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