♪♪ NATの独り言 (心・ジャズ)

生きていく上で信じてること。大好きなジャズのこと等

2018年08月

米中関税戦争ー持久戦は中国の負けか??

  米中関税戦争。

l 評論の多くは、「現在の米国の堅調な経済」 対 「中国の過剰債務等の構造的弱点」から、トランプの言う持久戦になると中国不利、だから早晩、中国が折れる、というような予想をしている。しかし本当にそうか? については、両国の国力・政治体制等を分析的に積み上げても、案外分からないと思う。

l そもそも米国の目的は何か? 物事の基本すら分からない庶民や、その層に迎合する学者や政治家が、米国の貿易赤字・経常赤字を「負け」と見るトランプの主張を支持するのは所詮「あぶく」のようなものとしよう。しかし、もう少し物事の分かる議員等も敢えてトランプの対中国関税戦争に乗っているとすると、それは、中国が軍事・経済において世界の覇権を狙ってきており、米国の覇権に立ち向かっているのへの危機感があるからだろう。

l そこで、ここからは、近代の米英 対 アジアの歴史を思い起こしてみたい。

(1)明治維新以降、欧米列強に追いつくべく富国強兵政策を展開していったアジアの小国日本に対して、 米英は、やはり白人欧米の仲間国とは異質なものを感じ、日清戦争から日中戦争までの経緯の中で、日本に対し様々な牽制をした。その結果、日本はいよいよ満州・中国進出・支配を進めていった。

(2)斯くして日本は中華民族との戦争を拡げていくが、アジア同士の故か中国人の力を軽視し、野放図に日中戦争拡大をしてしまう。一方、中華民族は、全土において日本に攻められると根強い抵抗戦に出た。日本軍は中華民族の底力を過少評価し泥沼入りする。そして結局、対米英戦争に突っ込んでいったのである。

l 私は、今般の米中関税戦争に、上記の歴史のアナロジーを見る気がする。

(1(1)中国の現在の世界における覇権主義は、歴史の必然でもあり、本気で阻止することには困難が付きまとう。米国は、ドイツに対しては気に入らなくてもここまでしないが、アジアの覇権国中国に対しては、過激なアクションにも出る。それは、100年前にアジアの日本を米英らが牽制した結果、日本の対中侵略を誘発した如く、中国を却って追い込み、過度に刺激するリスクを伴う。

(2)そしてトランプ政権は、アジアの国、中国は、所詮米国の国力で押し切ると音を上げてくると見ているかもしれないが、それこそ、日本が日中戦争で中国を甘く見た目線に通じる。中華民族は存外しぶとい。持久戦に勝たないまでも、決して負けない抵抗力もある。ましてや、共産党の政治力学を考えると、米国に降参し「中国2025年製造ビジョン」等の旗を降ろすことはあり得まい。

l
トランプ政権は、上記のような点を必ずしも的確に見据えてはいまい。だからこれからトランプ政権の安易な予想に反した様々な中国側の反応が出てくる可能性が高いように思う。どうだろう。       Nat

8月15日-「終戦の日」か「敗戦の日」か ?

今週、日本は815日「終戦の日」を迎えた。世の中には、この日を敢えて「敗戦の日」というべきではないかとのご意見もある。 

◎「敗戦の日」というべきというご意見の趣旨

  ・   世の中で815日のことを何と呼ぶか? 休日ではないので、休日としての正式呼称はないが、1982413日の閣議決定で815日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」とすることが決っており、政府としての正式な呼称はこれであろう。 しかし、マスコミを含めて815日のことは「終戦の日」と呼ぶことが多い。

  ・   これに対して、むしろ「敗戦の日」というべきというご意見があるとすると、それはあの戦争(日中戦争、太平洋戦争)では日本軍が中国・アジアへの侵略戦争を仕掛け、結局、太平洋戦争で米英ら連合軍と戦い敗れた。その戦争責任への反省に立つ場合、単に「終わった」ではなく「敗けた」「敗戦」と呼び、より反省の念を強めたいというご趣旨であろうと推察する。  

◎ 戦争における「勝ち・負け」と「戦争責任」

  ・  では、人類の歴史の中で戦争の勝ち負けと戦争責任はどういう関係であったのかを振り返ってみよう。

  ・   第二次世界大戦以前の世界における国際法の考えでは、戦争の責任については、勝った方も負けた方も「どっちもどっち」とし、負けた方にばかり戦争責任を押し付けたり、負けた国を「罪」と定める考え方は一切なかった。しかし負けた国は賠償責任を負う、つまり戦った国にお金を払ってケリをつけて終わりにしたのだ。(一方、どちらの国の側でも、個々の軍人が「国際法上のルール違反の行為」をしていた場合は、その個人が戦犯として裁かれることはあった。)

  ・   しかし、第一次大戦の際のドイツへの過酷な賠償責任が、結局、第二次世界大戦に繋がったとの反省から、第二次大戦後は、賠償責任が過大とならないようにする見返りに、東京裁判とニュールンベルグ裁判で、実質、敗戦国家の戦争責任を問う方式を連合国が考案した。即ち、日本の中国・アジアへの侵略行為を「侵略の罪」(A級戦争犯罪)、ドイツ・ナチスのホロコーストを「人道的」(C級戦争犯罪)とする国際法規を事後的に作り出し、それで日本軍、ナチス軍の幹部個人を戦犯と定め処刑することでケリを付け、その分、重い国家賠償を課すことを避けたのである。戦後、日本は米英等戦勝国に一円も賠償金を払っていないが、それはA級戦犯処刑との引き換えであったのだ。(注:「迷惑をかけた」相手国という意味で、ビルマやフィリピンには賠償金を支払っているが、米英等には払ってない。)

  ・   しかし、東京裁判とニュールンベルグ裁判に基づく、実質的に日本とドイツという敗戦国を「罪」と定める人類史上初の処置は、「戦勝国による敗戦国への一方的な断罪」であるとの見方を生み、それが故に、日本の815日の出来事を「敗戦」というと、それが同時に、米英が一方的に行った東京裁判による「戦争責任」(実質国家の責任、形式は軍幹部個人責任)と併せて認識され、東京裁判に憤りを感じる人からすると「敗戦」と言う呼び方そのものにも複雑な思いを抱くことになるのである。 

 ◎ 日本の敗戦をどう呼ぶか?

  ・   さて、815日の日本はポツダム宣言を受諾し降伏したので、国際法上、日本が「敗戦」したことは全くその通りである。

  ・   そこで、815日を「敗戦の日」と呼ぼうとすると、上記の通り、東京裁判史観の「敗戦=一方的戦争責任」への憤りを感じる層からすると、「敗戦」という語感への複雑な思いから、それを嫌い「終戦」と呼ぼうということになる。

  ・   しかし、東京裁判史観の肩を持つかどうかは別にして、日本の戦争責任について反省をもって問いたい層からすると、逆に「終戦」ではなく敢えて「敗戦」と言おうということになる。斯くして、この二つの層はぶつかるのである。 

  ・  ここから私の思いに入っていく。

   (1) 815日を「敗戦の日」と言いたい人は、戦争への反省からそう言われるのであろう。しかし、そういう方に敢えてお聞きしたい。日本は敗戦し、その戦争責任を問いたいので「敗戦の日」という場合、「敗け」があれば「勝ち」もある。とすると、815日の出来事のことは、米英にとっては「勝ち」と言うことでいいのか?日本が負けて、あの戦争の責任、罪を全て負うのなら、米英は勝ってあの戦争で一切、責任、罪はないのか? 米国のルーズベルト大統領が、欧州で始まっていた大戦に米国も何とか参戦する口実を求めて、ABCD包囲網、ハルノートで日本を追い詰め、その結果、日本が真珠湾急襲した際に躍り上がって「これで米国も参戦できる」と喜んだとされることをどう理解するのか。終戦間際で言うと、既に米ソの戦後の世界分割を掛けて、ソ連の対日参戦の日までに、何としても広島・長崎に原爆を落とし、対ソ連の強烈な示威行動としたかった、そしてそれを実行、その日だけでも広島・長崎の計20万人以上の市民を虐殺した。その結果、日本からソ連をシャットアウト、日本は米国が100%支配できた。このトルーマン大統領の米国の行為は完全に米国の覇権主義であり、また広島・長崎(あるいはその前の日本本土空襲)は戦争犯罪ではないのか。日本が「負け」「罪」なら、そういう米国でも「勝ち」「無罪」というのか?そういう問題が出てくると思う。

(2) 戦争の勝ち・負けは、所詮、人間の世界での判定である。そして、戦争責任、戦争の罪も、人間の世界での人間による判定である。815日の出来事を、人間レベルの勝ち・負け、人間レベルの戦争責任、戦争の罪で論じる限り、負けの反対は勝ちであり、どちらかに戦争責任があるなら、他方には責任がないことになる。そして、人間による判定である限り、双方からそれに憤り反発する声が永遠にやまないのだ。

(3) 戦争は、人類の神への罪である。人間レベルの判定で、どちらがより罪深いか罪が軽いかを幾ら議論しても、双方の人間が、神さまの創られた多くの尊い人命を奪い合ったことには変わりない。だから、戦争は、勝ち負けに関係なく、また、どちらが戦争を始めた責任があるかに関係なく、全ての関与した人類が神に対して赦しを乞うべき「人類全体の神への罪」である。私はそう考える。・・・・但し、言っておくが、私は日本人なので、日本軍が韓国・中国・アジア各国でやってきた恐ろしい虐殺行為については、同じ日本人として心から詫びたい気持ちを持っている。上記の通り、米国のルーズベルトもトルーマンも可成りの「悪」だと思うが、日本軍の「悪」については実に心が痛む。しかし私にとって、これらはみな究極的には「人類の神への罪」なのである。

(4) 従って、私の思いとしては、815日は、人類が神に対して犯し続けてきた罪としての戦争行為を、神のみ力により、漸く人類が終了出来た日なのである。二度と戦争を始めない決意を込めて、「戦争は終わった」と宣言しつつ、戦争を終わらせてくださった神に祈るものでありたい。だから、この日に人間レベルの概念である「敗戦」というのは、私の信仰からはあり得ない。そこにどんな反省を込めていても、「敗戦」は人間レベルの概念でしかないからだ。・・・・最後に一言。極右の人が815日のことをどう言っているか? 彼らは「終戦」と言わない。「敗戦」と言う。なぜなら彼らは「前回は負けて悔しかった。今度こそ負けないようにしたい!」だからである。私は、日本人も米英人・ロシア人も中国・アジア人も皆で、あの戦争で神に対する罪を犯したことを神に共に懺悔し、共に赦しを祈りつつ、「戦争は終わった。二度と始めないようにしよう」と言い続けたいのである。

だから私は、もう人間レベルの「勝った」「負けた」ではなく、「終戦」と言い続けたい。二度と戦争を始めないために「戦争は終わった」というのである。      Nat

神は人の苦境に対し、何をして下さるのか? 下さらないのか?

★ 私の教会のジュニア・チャーチ(子どもやお父さん・お母さん等が中心の教会)における、8月の聖書のテーマは、「イエス様の奇跡」だ。イエス様が起こした奇跡的な業を聖書から辿っている。例えば、ヨハネによる福音書に書かれている話で、5000人以上の貧しい人たちが、イエスを慕って、人里離れた山でイエスのところに寄ってきた時、夕方になり、皆、おなかが減ってきた。しかし皆を食べさせるパン等が全くない。弟子たちも、皆も困り果ててしまっていたところ、そこには5つのパンと2匹の魚しかなかったのを、イエスが神さまの力による奇跡で、それを5000人皆に行き渡るようにしたという奇跡物語がある。 

・実際に、イエスがマジックのように、どう奇跡を起こしたのか、起こしてないのか、今では確証のしようがないが、この話は、新約聖書の4つの福音書(イエス伝)のどれもが書いていることだ。今では実際には何が起こったか分からないが、5000人の人たちが、イエスによって、おなかも心も満たされた、不思議だが「忘れられない体験」をした。そのことを「あの時は、すごかったんだよね!」として語り伝えたのが、いきおい、それぞれの福音書に記載されることになったものだろう。 

・現代の人からすると、イエスのような教祖様にありがちな「神話」的脚色物語だろうという理解もあろう。しかし、ヨハネによる福音書の最後に書かれている通り、これらのイエスの信じられないような業(わざ)の話は、それによって、当時の人が心からイエスを神の子・救い主と信じたということ、そしてその心から信じたという事実を、後世の人に伝えたい一心で書いたということだ。 

・そこで、2000年の後の現代、科学も発達した現代にあって、こういうことを伝え聞いた私たちは、それにどう反応するのがいいのだろうか。 もし神さまを信じ切って、神さまに祈って生きると、神様はそういう人間の人生の歩み・運命に何か働きかけてくれるのであろうか? 

・旧約聖書の出エジプト記には、エジプトから脱出したモーセたちユダヤ民族が追手のエジプト軍により海辺に追い詰められて、絶体絶命になった時、神は海を割ってユダヤ民族の逃げる道を切り開いてくださったとある。冒頭に書いたイエスの5000人へのパンと魚も、困り果てた人々に対して、神は想像もつかぬ方法で救いの手を差し伸べてくれたものだ。このように、本当に困り果てた人々が神に祈る時、神はそれにどう応えるのか? 奇跡的な力をもってでも、応えてくれるのか? これが、少しでも「神」のことを思ったことがある人類が、太古の昔からずっとずっと抱えてきた設問だろう。そして、それは私自身が約70年間の人生で、ずっと考え続けてきた設問でもある。 人は人生の中で、例えば厄介な病気になり困り果てる、あるいは、大学受験に全部落ちて困り果てるといった「苦境」に遭遇することがある。その時に、神に「助けてください」と、心から信じて祈ると、神は何をしてくれるのだろう?という設問だ。 

・この設問への応答の型としては、私がこれまで出会った様々な人の思いを以下のとおりの型に分類できると思う。

 

【型1】 神の人間への関与はない:

   「神などいない」。あるいは「もし神がいたとしても、宇宙の精神のようなものであって、個々人の人生の具体的な苦境に働きかけたり等はしない。人は人の力で生きていくしかない。」・・・日本人の多くはこれである。そういう人でも「死んだおばあちゃんが助けてくれたに違いない」みたいな形で、「祖先の霊」を一種の「神」的なものとして想定する文化的背景はあるから面白い。 

【型2】 人が苦境にある時、神は共にいたもう:

  特に人が苦境にあり、神に叫び声をあげる時、神はそういう人に寄り添ってくださる、共にいてくださる、という信仰はあり得る。そして、日本の多くのクリスチャンはこの感じの思いをもっている。しかし、そういう人でも、神が、人の置かれた具体的な苦境、例えば厄介な病気状態、あるいは受験全滅状態を具体的に克服してくれる、つまり、その人の置かれた外部環境的な苦境からその人を救い出すことまでしてくれるかは分からない。あるいは具体的苦境そのものを奇跡的に解消してくれるかと言われると、そこまでは行かないかも知れない。それでも、神は共にいたもうのだという信仰を抱くということだ。その結果、その人はどうなるか?ということで、ここから更に2つに分かれる。

 (型2-A) 神さまが共にいて下さることで、苦境にあっても、多いに慰めになる。神さま(あるいは目には見えないがイエス様)が一緒にいて、苦しさを一緒に背負ってくださっている。その分、おおいに気が楽になる。・・・という、表現は悪いが「大いなる気休め」信仰。これが(型2-A)。

(型2-B) 「いやいや、気休め以上だ。神は共にいたもうことで、我々に力を与えてくれる。それにより、我々が苦境を乗り越えることも出来るようにされるのだ。」という風に、神は直接苦境の除去まではしなくても、人の心を内的に強め、内的に強まった人が、外的な苦境環境は同じでも、それにより良く挑戦していけるようにされるという信仰。これもあり得る。 

【型3】 神は、必死に祈る人の置かれた苦境そのものに働きかけ、道を切り開き、苦境そのものを変えてくださる:

  モーセたちが追い詰められた時、海を割った神、空腹の5000人にイエスがパンを配れるようにした神は、困り果て、神に依り頼み強く祈る人の置かれた苦境、そのものに働きかけ、人の思いを越えた形で道を備え、苦境そのものを取り払ってくださるという信仰があり得る。

しかし、神が具体的に何時、どういう形で働きかけてくださっているのか? 神の働きかけのない場合に比べて、神のみ業はどこにどうなされているのか? ということは、人間には永遠に分からないということでもある。神が実際に何時どう働きかけて下さっているか、皆目分からない。しかし、神は、必要であれば海をも割る大いなる み力をもって、我々の歩む道を切り開き、備え、変えていってくださるのだと信じ切って生きる。その分、いつも祈り、いつも感謝する。これが「型3」である。 「型2」のように、神は苦境にある私たちと一緒に泣いてくださっているだけではない、苦境そのものを変え、新しい道を備えようとしてくださるのだと信じて生きるものだ。 

【型4】 神は、人間が具体的に祈りで依頼する内容を受けとめ、それを実現してくれる:

   米国に多いChristian Scienceの人がこれに近いが、人が強く祈る時、その祈りの具体的内容、たとえば「私の肝臓の癌を取り除いてください」という祈りに実際に神は応えてくださり、肝臓の癌が消えていくという信仰が、この「型4」である。 

これらの、どの型が正解か? そんなことは人間には分からない。それぞれの人の人生の選択であろう。 ただ、日本でも比較的インテリのクリスチャンであればあるほど、「型2」が多いと思う。遠藤周作はこれに近い。しかも彼は、どちらかいうと「2-A」に近いだろう。 

これに対して、私は、長い間、まず、「型1」、「型2」の間を揺れ動いたが、今たどり着いた信仰は「型3」である。モーセ達がエジプト軍によって海辺に追い詰められた時、誰もが、神が海を割ってモーセたちの進む道を備えて下さる等とは思いもよらず、ただただ、神に悲鳴を上げただけである。このように、もう神にしか頼ることの出来ない弱い人間が叫ぶ時、神は人の思いを越えてでも、み力を発揮し、必要なら、奇跡を起こしてでも、人の進む道を創りたもうのである。 具体的に何時、いかなる み力が働いているかは、分からない。それでもそれを信じる。「おめでたい信仰」と言われかもしれない。結構だ、私はそういう「おめでたい信仰」を貫いて生き、死んでいきたい。それこそが、イエスの様々な奇跡のわざを書いたヨハネによる福音書が最後に書いていることだ。これらの奇跡の報告は、あなたがイエスを主と信じて生きる人となるためであると。

 

皆さんはどうでしょう?     Nat

 

 

日本がLNG火力一辺倒になるのでは危うい!

★本朝の日経報道で九電・東ガスの千葉の火力発電を石炭からLNGに切り替える検討のことが出ている。また、今後は石炭火力には銀行融資を見合わせる等の報道も多く、それだけ見ていると、もう今後の発電として石炭火力はほぼ消え果て、原発がダメでも太陽・風とLNG火力でやっていくとのイメージを持つ人もいるだろう。

しかし、ここで何度も書いている通り、日本としては、結局、新設を含めた石炭火力に依存しないと国が回らない可能性も高く、自ら石炭の道を必要以上に封じるような政策は国益に沿わないと思う。だから資源エネ庁のHPもまだまだ石炭の道があることを説いている。

そもそも、世界の発電では現在40%ほどが石炭、20%ちょっとが天然ガスであり、圧倒的に石炭。更に、今後2040年位までのIEAの予想でも、中国・インド・インドネシア等の新設発電所は、これまた圧倒的に石炭となる。その分、先進国で可能な国は石炭は控え目にしましょうねという話である。このように、結局、人類が今後とも石炭火力に大きく依存する現実は現実として認識しておかないといけない。その上で温暖化どうするか?という命題だ。

また、多くの人が理解していないのは、温暖化対策で「石炭より天然ガス」という時、その「天然ガス」はLNGと同じではないことだ。世界の発電の2割超が天然ガスと言っても、その9割はパイプラインで引いてくる天然ガスであって、LNGは、天然ガスの中の1割(つまり世界の発電の2%ちょっと)だけのいわば「特殊」なものである。日本のような地理的な環境の場合、天然ガスといっても液化してLNGにするしかない。しかしだ、温暖化問題ひとつとっても、そもそも天然ガスはガス田から猛烈なる温暖化ガスのメタンを放出する問題が隠れているのに、その上、膨大なエネルギーを使って液化まですると、高エネ効率のハイテック石炭火力とのトータルな温暖化ガスの差は、計算によるが、可成りなくなるのである。

にも拘わらず「クリーンなLNG」とかいったイメージばかりが拡がっている。繰り返し言うが、日本はLNGだけではなく、いざという時には、石炭に依存する道も温存しておかないと危ない。銀行が政治的に新規石炭火力への融資出来ない場合でも、必須と思えば、政府が公的融資をしてでも、進められるようにしておかないといけない。そういう問題だ。だから、LNGの実態、石炭の実態、正しい認識を広めておく必要があると思う次第だ。  Nat

●8月11日 加筆:

★昨日、日本の電力が「太陽・風力」+「クリーンなLNG」で、もう大丈夫と思い過ぎることへの警鐘記事を書いた。
● と思うと、今朝の日経で、東電管区でこれだけ暑いのに原発ゼロで回っているのは、家庭の屋根からを含めた大量の太陽発電があるからという記事が出た。実に最大発電量5000万KWの2割相当の1000万KWが、瞬間的にだか太陽光発電だったそうな。
● その辺だけを聞いて、いよいよ太陽・風・LNGで十分という気分が広がるのではと思う。
● 下のエネ庁のグラフを見て欲しい。2011年の福島事故までの緑色の原子力が、ほぼゼロになり、その替わり、何で埋め合わせたか?オレンジ色のLNGが異様に増加、あと、下の方のよもぎ色の石炭だ。太陽・風力の新エネ(上の赤い処)は平均すると非常に小さい。
● 中でも、LNGへの過度の集中になっている点に注目だ。
42%と半分近い! 昨日書いた通り、LNGの隠れた温暖化ガス発生も入れると、ここまでLNGに傾斜する合理的理由はない。むしろ、昨日からコメントしている通り、(シェールガスで供給の幅は広がったものの)LNGは出荷サイドも受け入れサイドもリスク集中があり、日本がここまでLNGに依存してしまっているリスクが懸念されて然るべきなのである。
● そして、日経でも少し書いてはいたが、皆の期待する太陽だが、東電の瞬間最大1000万KW(2割)はお天気次第で急に消える。寒い冬の暖房に寒い曇りの日の太陽発電は無力である。
● 安定した電力は、どう見ても、抜本的やり直しで安全度を高めた新原発、石炭、LNG、その上で、地熱・太陽・風力とくる。このような適正ミックスを目指さないと国が危ない。
● しかし、何度も言うとおり、安倍政権は虚構のエネ計画を下ろさず、本当の課題には全く向き合わず、しかも国民にその点を知らせようともしていない。私は大声でそれへの警鐘を発したい。
エネルギーミックス 180811 Document-page-001

トランプ大統領のイラン対応の危険性

★トランプがイランに噛みついている件。

北朝鮮問題では、一応、米国に届くミサイルがあったので、金さんと握手することの背景には、米国の国益戦略が一応ないではなかった。その上、握手するだけのショーだから、北朝鮮を下手に刺激するリスクもなかった。

しかし、イランは、直接、米国の国益を大きく脅かしてはいない。またオバマの時に、世界の諸国が参加してイランの核開発を封じ込めることの見返りに制裁を緩和する合意をしたので、更にイランが暴発して米国・世界への脅威になるリスクは、一応、制御されていた。ところがだ「それでも実はイランが核開発を密かに続けている!」というイスラエルを筆頭とする苛立ちの声を聞くと、トランプは立ち上がった。イラン合意をしたオバマをこけにしつつ、米国内の新イスラエル勢力の喝采を得られるという、選挙対策の思惑からの行動だろう。

このことの結果で、イランが米国との核開発問題の再交渉のテーブルに着く可能性はほゞゼロである一方、軍事大国イランをして、ホルムズ海峡封鎖なり、あるいは何等かの武力衝突等においやるリスクのみが高まる。

既に、トランプ政権は、この4月にも、イランをバックに持ったシリアの化学兵器工場に対し、議会に一切図らず攻撃をしかけた。今のトランプの側近ポンぺオやボルトンは、トランプが次の類似アクションをするのを止める人たちではないだろう。

これだけ考えると、トランプのイラン作戦は、北朝鮮とのショーの百倍以上も危険な話であると思う。またその危険性は、今の米中貿易戦争の比ではない。

ことイランの場合、米国は直接にはリスクに余り巻き込まれないのにも拘わらず米国の諸報道ではちゃんとWar risk論を展開している。しかし、中東にこれだけ石油を依存している日本の報道が、まるで無頓着(単に「米国からイランの油買うなと言われるのは困るよね・・」というだけ)である。これに対し私は危機感を感ずる次第だ。違うかな?   Nat
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