※※追記: ★ということで、台湾の蔡総統が、10年後の台湾を思い描くなら、日本は、台湾・日本を含む、10年後、50年後のアジアを思い描かねばならない。昔、日本は、日本を頂とする大東亜共栄圏を思い描いた。今、共産党中国が大中華共栄圏を目指しているなら、日本は台湾等と連携し、自由な東亜を守りぬきたい。
※※追記の追記: ★更に言うと、今の近代の台湾は、日中戦争の日本の宿敵、蒋介石が作った国である。
生きていく上で信じてること。大好きなジャズのこと等
★先に、12月8日、日本が真珠湾攻撃をしてしまった日に向けて、日本が大戦を回避できる機会があっただろうか?につき、以下の記事を書いた。
http://iamnat.dreamlog.jp/archives/52092837.html
http://iamnat.dreamlog.jp/archives/52092885.html
要は、シンガポールで英国降伏させただけで止めていたら、対米大戦回避出来ていたのではという見方だ。
● ところが昨晩、NHK-BS1スペシャルで、日中戦争を講和に持ち込めた機会がいくつかあったのを、ことごとく、日本が自分でそれを潰してしまい、結局、日米大戦に入ってしまったというテーマの番組があった。これまで聞いている話と大筋は同じだが、蒋介石の日記などの様々な記録で生ナマしく紹介してくれて、とてもいい番組だった。「歴史にIFはない」のだが、種々考えさせられた。
1)上海陥落(1937年11月)で留めていたら: 第二次上海事変、日本軍は苦しんだが、上海を陥落させた。ここで、南京で中国政府を構えていた蒋介石と、日本有利な講和の機会があった。しかし、日本は南京を攻め、蒋介石は重慶に逃げ、却って「焦土抗戦」路線に追い込んでしまう。
2)「爾後国民政府を対手とせず」(1938年1月): 前年から、ドイツの中国大使トラウトマンが仲介の労をとり、講和条件の交渉がなされていたのだが、近衛首相は、蒋介石との交渉打ち切りを宣言。ここで粘り強く交渉していれば、という「歴史のIF」がある。
3)日独伊三国同盟(1940年9月): もう苦戦でギブアップ寸前の蒋介石が小躍りして喜んだのがこれ。蒋介石としては、中国の戦力だけでは日本にかなわないので、英国、そして最終的には米国を対日戦争の味方に引き入れるしかないと思っていた。ところが、欧州で英国と戦っていたドイツと日本が同盟を結んだというニュースが入る。蒋介石としては、これで英国・米国を味方に引き入れられると読み、大喜びする。一方、日本は、欧州戦線でのドイツ勝利を過信し、自ら、英と、ひいては米国との戦争の道となる三国同盟を選んでしまった。蒋介石が大喜びしていることなど、つゆ知らずにだ。
4)汪兆銘政権承認(1940年11月):日本の外務省が、再び、蒋介石との交渉を進めていた時に、軍部がそれに見切りを付け、日本の傀儡政権、汪兆銘政府を承認し、日華基本条約まで結んでしまう。これがほぼ最後の講和の機会であった。
5) Hullノートの一つ前の米国暫定案(1941年11月): 日本が米国の最後通牒と受け取ったHullノート(特に中国からの撤退を日本に迫るもの)の前に、より穏健な非公式暫定案があった。日本に仏印からの撤退だけを求めるもの。それで講和に持ち込む機会がなかったかは、微妙だろうが、昨日のNHKでは、日本がそれを直ぐ受けない間に、蒋介石が英チャーチルに働きかけ、米国に強硬路線を採らせる策謀をし、それに成功する、ということを紹介していた。結局、日本を真珠湾におびき出したのは、一義的には米ルーズベルトだが、その背景に、更にしたたかな英チャーチルがいたことになる。そして、日本は、蒋介石・チャーチル・ルーズベルトの策謀にまんまと嵌められたわけだ。Hullノートの前の暫定案で講和していれば、と悔やまれる次第だ。
● 以上だが、兵力では日本にかなわないと見た蒋介石が、国際政治を動かそうとするのに対し、変に自分の武力を過信する一方で国際政治力の欠落していた日本(特に陸軍)。その戦いで、前者が勝ったということだ。・・・・これから日本も台湾有事などの極東紛争に巻き込まれていく可能性高いが、かつての戦争の「IF」は大事にしたい。 Nat