★私はキリスト教の教会の一人として生きているが、今回のウクライナ戦争では、信仰を持って生きることと、眼前の戦争に向き合うこととの関係につき、種々考えさせられている。
◆ まず頭に浮かぶのが、WWIIの時に、日本のプロテスタントのキリスト教諸派が、政府の宗教団体法に呼応して、戦争遂行のために大合同し、1941年に日本キリスト教団を結成したことだ。日本の勝利のために神に祈ったのである。戦後、1967年に、教団総会議長名で、「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」(“戦責告白”)を出し、「教会は、あの戦争に同調すべきではありませんでした。・・・キリスト者の良心的判断によって、祖国の歩みに対し正しい判断をなすべきでありました。」と自己批判をしているものだ。
・・・これに対し、今、私が思うことは、ロシア国内のロシア正教の信者たちの祈りだ。多くの信者は、西側がロシアの存在を脅かし、ロシアは已むなく自衛戦を強いられていると理解し、ロシアの勝利を神に祈っていることだろう。
・・・日本のプロテスタン諸教会の信者も、1941年には、邪悪な鬼畜米英と戦い、アジアを解放する戦争こそが神のみ心だと信じ、祈ったのだ。それが間違いであったと思うようになるのは、戦争に負け、米国に占領され、東京裁判を受け、占領米軍によるWar guilt programにより、「日本こそが邪悪な侵略をした」との歴史理解を徹底されてからのことである。
・・・今回のウクライナ戦争でも、上記のとおり、ロシアの多くの信者は、西側が邪悪と信じ祈り、我々西側は、プーチン・ロシアこそが邪悪で、ウクライナは100%その被害者だと信じ、そういう前提で祈る。しかし、日本キリスト教団の1967年の「戦責告白」の通り、人間の前提・認識は、時と共に変わり得るものであり、「絶対にこれが正しい」はない。神から見ると、常にふらつき間違いをする、それが、神が憐み給う人類の姿である。
⇒ 私の思うこと【その1】: 私たちの認識は、相対的でしかなく、あとで強い反省もあり得ると常に自省し、そういう姿勢で神に祈ることは必要だ。しかし、だと言って、「様子見」「日和見」にもならず、個々人のベストを尽くして戦争状況を知り、その時々のベストな認識と信念を持って動けるように祈るべきと思う。
◆ 次に「平和主義」との関係だ。
・・・ウクライナが侵略され人が殺されている時、信仰を持って生きている我々は、それに対してどうすべきか?だ。勿論、人類の出来ることは限られるとして、ひたすらに神による平和を祈ることは基本だろう。しかし、その上で、具体的な戦争状況につき、何を考えるものであるべきだろうか。
・ウクライナ政府・ウクライナ軍が抗戦の戦いをする、即ち「武力による防衛行為」をするのでは、結局、「戦争」=「大量人殺し」になるから、我々はむしろ「非戦・非抵抗」を主張すべきであろうか。
・これは、戦争に限らない。自宅に賊が押し入り、あなたの子どもを殺そうとするとき、あなたが「非戦・非抵抗」で「話せば分かる」というだけに留まるだろうか。
・・・聖書・教会の信仰は「非戦・非抵抗」とイコールなのか?という問題は、もう様々な意見があることだ。イエスの言葉でも「わたしが来たのは・・・平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。」(マタイ10:34)という解釈の分かれる言葉もあれば、有名な「剣を取る者は剣によって滅ぶ」(マタイ26:52)もある。旧約聖書の語るユダヤ民族は、約束の土地・国を勝ち取るために、見掛け上は “侵略戦争” ・防衛戦争をした。十字軍は何だったのか?という有名な問題もある。自分の子どもが刺されそうな場合は、手元に剣があれば、それで対抗する人の方が多いだろうということもある。
⇒ 私の思うこと【その2】:
① ウクライナでは、私は、少なくとも、今の認識では、プーチン・ロシアの積年の怨念は理解しても、2014年のウクライナ第一次侵略も、今回の第二次侵略に「義」はなく、侵略されたウクライナを守るべきと考えている。
② ウクライナを守るためには、今は、東部戦争に備えて、ロシア軍に対抗し得る武器を、米欧が提供することが必要と考えている。そのため、出来る範囲で、ロシアの武器、米欧の武器のことも調べ、ここでも書いてきている。そして、米欧の武器と経済封鎖・政治圧力により、プーチン・ロシアが強い圧力を感じ、最終的には、攻撃を諦め、停戦・休戦、あるいはロシアとしての「敗戦」受諾、のいずれかに進むことを願うものである。
③ 但し、それでも絶対大切と思うのは以下だ:
イ)人類は、始めた戦争は、話し合いや祈りでは終えることが出来ず、行く処まで行かないと終えられない。人類には、武器投入・経済封鎖に留まらず、実際に交戦もせざるを得ない現実がある。そこで、それらにつき、我々も真摯に向き合う。「交戦は止めろ」と言いたくても、実際には戦う、あるいは、戦うウクライナを応援することになる我々の現実がある。
ロ)しかし、そういう対処しか出来ない人類の愚かさを、神が憐み、神が赦して、なお人類を愛し導いてくださるように、神に祈り続けること・・・これを欠かしてはいけない思う。
◆ 以上が私の思うことだ。上記の通り、私の思いが適切かどうか、神に聞いてみないと分からない。しかし、世の現実に真摯に向き合い生きる限り、私に間違いがあれば、神はなお私を許し、愛してくださると信じたい。 Nat