笑顔前回「人はお金だけで生きるものにあらず」という記事を書いた。この世で生きていく上で、お金に執着してしまうような生き方はイヤだなと思いつつも、気がついたら結構お金のことを考えてしまっている自分にも気がつくという趣旨だった。
本イエスの「人はパンのみにて生きるものにあらず」の言葉の後に、もう一つ、この世で人が執着する別のものへの悪魔の誘惑が出てくる。それは権勢や評判だ。イエスはこれに対して「飽くまでも神に仕える」と言い切った。
走るこの世では、実は「お金」お金と「権勢・評判」拍手が別々の誘惑としてくるというより、結構、この二つがセットになっている。会社でも、認められて課長、部長と昇進すると、この二つがセットで手に入る。逆になかなか評価されず昇進しないと給料も増えないダブルパンチを食う悲しい。同期や後輩で先にどんどん上がっていくやつを見ると、「なんであんなやつが」という「権勢・評判」への“ねたみ”と、「あいつ結構もらってやがるんだろうな」という「お金」の“そねみ”がセットになって襲ってくる。それに対して「自分は自分の生き方をすればいいんだ」等と、自分に言い聞かせながらも、そう割り切れない自分を見出したりもする。権勢もお金も要らないと思いながら、頑張っている自分が何故か評価されないことへの不満はやり場のないものになる。
家そんな時、いわゆるキリスト教的・教会的には「そんな貴方のことを神さまは必ずよく分かって下さっていますよ」ということになるわけで、それは、それで大いに励みにはなるわけだが、また昼間に職場などで露骨に「差」を見せつけられると、その瞬間は頭の中が沸騰して、神さまの愛のことは忘れてしまう。これが人間ではなかろうか。確かにそんな人間だからこそ、神さまは人間のところにまで降りてきてくださり、一緒にいてくださるのだろう。でも、頭が沸騰した瞬間、一緒にいてくださる神さまは一体何をされ、何を思っておられるのだろうか????

はてな人間探求は続く。。。。 Nat