笑顔 この間、アメリカでは今でも人口の6割以上が進化論を否定し、聖書の天地創造物語を聖書の字句通り信じているとの調査結果の報道があった。アメリカでは進化論を教科書に載せることを禁止している州もあるようだし、また多くのイスラム諸国でも同様に進化論はご法度だ。このように、日本人の想像以上に、世界では、進化論を否定し「神による生物の創造」を信じている人口が多い。

笑い 実は私は大学の頃、進化論に魅せられ、可なりの数の進化論の書物を読み、その後もサイエンス誌で進化論特集が出ると買い漁って読んだものだ。小生にしても進化論学者にしても、関心事はもっぱら「進化があったかどうか」ではなく、進化があったことを大前提にした上での「進化の仕組み」である。ただし、私は、学生時代から「ダーウィンの自然淘汰説」+「突然変異説」だけでの説明(ネオ・ダーウィニズム)、つまり、ある生物のDNAの突然の“故障”で偶然に生まれた奇形児が偶々環境に合っていたらそれがはびこるのが進化だというような説明には納得しがたかった。むしろ、日本では京大の今西錦司先生、或は、古いがフランスの哲学者ベルグソンの主張のように、もう少し“生物固有の進化エネルギー”のようなものを認めないと説明に行き詰まると思っていた。例えば、タコの目と人の目の圧倒的な類似性を、偶然と環境による自然淘汰だけで説明するのは無理があるという具合だ。その後、だいぶ進化論と分子生物学が発展し、遺伝子の中に変化を進める為のプログラムが組み込まれていることの発見などもあり、進化論も単に「偶然の奇形児の生き残り」だけで説明する段階よりは進んできているようである。

本 本題に戻ろう。
 日本では、聖書の天地創造物語を字句通り信じているクリスチャンは殆どいないであろう。神が天地を創造し命を創ったということを、意味論としては「真理」であるとしつつ、その神が創った天地や命の仕組みを研究する科学は科学で、それとは別のことだと、案外すっきり割り切っている。特に矛盾がないかのようだ。しかし、一旦聖書を字句通り信じることを止め、もし意味のある部分のみを取り入れ始めると、人間的なご都合主義に流れる危険性を持っている。アメリカの聖書原理主義者たちはこの点を鋭く突いてくるのである。旧約聖書の天地創造物語が“神話”というなら、新約聖書のイエスキリストの生涯・刑死・復活も“神話”なのか? どういう基準でそうだとか、そうでない、という判断をしているのか? このように切り込んでくるのである。実は、これにしっかり答えられる日本のクリスチャンは少ないようにも思う。むしろ、日本人全体では、そもそも聖書全体を特に信じていない人が大多数だから、クリスチャンも、他の人から滅多にそんな切り込まれ方はしない。だから、逆にそういう切り込まれ方には弱いのではないか。

びっくり しかし、その大多数の日本人に、信じていることをしっかり伝える為にも、この辺のことは曖昧にしない方がいい。我々が、聖書というものをどう考えているのか、神の天地創造の何をどう信じているのか、イエスキリストの生死の何をどう信じているのか、今一度、自分の中で反芻する必要があると思う。「進化論と神さま」は、その為のよいキッカケではないか。 (続きは「その?」で)    Nat