進化論を肯定するということは、旧約聖書の天地創造物語は一種の「神話」だと看做すことになるのだろうか。天地創造物語を「神話」と看做すなら、イエスキリストの十字架の物語についてはどうだろう? その後の、弟子たちが力に満たされて伝道を始めていく物語についてはどうだろう? それも「神話」というのか? 天地創造だけを「神話」とし、イエスや弟子たちの物語は「事実」とするなら、その根拠は何か?
私も、まだ、これらの問いへの答えを模索している途中かも知れない。でも、今の考えを書かせてもらう。まず、私が聖書という書物をどう思っているかだ。聖書を書き編纂したのは人間である。だから、聖書の文章はすべて人間の書いた文章である。人間として明確な意識を持って書くべきことを書いたのだ。しかし、その人たちに、そういう文章を書き、編纂しようという強い思いを起こさせたのは神だと私は信じている。だから、一つ一つの文そのものは「人間の文章」であっても、その奥に、神の心がある。「人間の文章」と「その奥にある神の心」。教会ではこれを併せて全体として「み言葉」と言っている。「人間の文章」そのものが字句通り「神の心」ではないのだ。人間に「人間の文章」を書こうとする心を持たせたのが「神の心」なのである。だから、聖書の言葉で都合のいいものを「神の文章」、都合の悪いものを「人間の文章」として選別するのではない。字句そのものは全て「人間の文章」、しかしその全ての奥には「神の心」があると言っているものだ。
だから、私にとって、天地創造物語も、イエスの十字架の物語も、弟子たちの伝道物語も、文章そのものは、一義的には「人間の文章」なのである。書いた人間の、その当時の知識や時代背景が、当然そのまま反映されている「人間の文章」である。しかし、繰り返すが、その人間がわざわざ後世の人にどうしても伝えたいと強く思った、その強い思いの背景にこそ神の心があると信じられるのである。
天地創造。神がこの世を創った。いや、むしろ、この世を創った大元(おおもと)のことを人は「神」と呼んだ。そして、その神がこの世に命を創られた。神は創られた命を愛し、放ってはおかれなかった。この信仰こそが、旧約聖書を書いた人の人生を捉え、魂を揺さぶった喜びの思いであったのだ。天地創造を書いた創世記、その後の時代の出エジプト記。神がこの世と命を創り、今もその命を愛し育んでくださっていると信じた古代の人たちの心の躍動が伝わってくるではないか。私は、その人たちと同じものを感じ、受けとめ、同じように心の躍動を感じつつ生きたい。その、聖書が私の心に訴えかけてくるものこそを、神の働きかけとして受けとめ、信じて生きたいのである。
旧約聖書の創世記の文章では、天地創造の5日目に神は生き物を創り、そして6日目に人を創ったとある。この「5日目」とか「6日目」というような、人間が表現として使った字句そのものに拘る必要があるだろうか。著者の人間が強く感じたことは、神さまが天地を創り、その後、命を地上に創り、そして最後に神が最も愛する存在として人を創ったということである。このように神が人に注いだ特別の想いを信じて、このことを書いたのである。
生物の38億年の進化史上、人類(ホモ・サピエンス)が登場したのは最後の十数万年のことと思われる。しかし、創世記の著者が、人間だけは最後の6日目に創造されたと書いたのは、人類が進化の最後に登場したことを知っていて、そのことを言いたかったからではないだろう。著者は、神が人間を生物の中でも一番後に特別の想いを込めて創られたという信仰を述べているのだ。だから、この物語は所謂「神話」ではない。この物語は、「神の人間への愛」の信仰告白なのである。(その3へと続く。) Nat
私も、まだ、これらの問いへの答えを模索している途中かも知れない。でも、今の考えを書かせてもらう。まず、私が聖書という書物をどう思っているかだ。聖書を書き編纂したのは人間である。だから、聖書の文章はすべて人間の書いた文章である。人間として明確な意識を持って書くべきことを書いたのだ。しかし、その人たちに、そういう文章を書き、編纂しようという強い思いを起こさせたのは神だと私は信じている。だから、一つ一つの文そのものは「人間の文章」であっても、その奥に、神の心がある。「人間の文章」と「その奥にある神の心」。教会ではこれを併せて全体として「み言葉」と言っている。「人間の文章」そのものが字句通り「神の心」ではないのだ。人間に「人間の文章」を書こうとする心を持たせたのが「神の心」なのである。だから、聖書の言葉で都合のいいものを「神の文章」、都合の悪いものを「人間の文章」として選別するのではない。字句そのものは全て「人間の文章」、しかしその全ての奥には「神の心」があると言っているものだ。
だから、私にとって、天地創造物語も、イエスの十字架の物語も、弟子たちの伝道物語も、文章そのものは、一義的には「人間の文章」なのである。書いた人間の、その当時の知識や時代背景が、当然そのまま反映されている「人間の文章」である。しかし、繰り返すが、その人間がわざわざ後世の人にどうしても伝えたいと強く思った、その強い思いの背景にこそ神の心があると信じられるのである。
天地創造。神がこの世を創った。いや、むしろ、この世を創った大元(おおもと)のことを人は「神」と呼んだ。そして、その神がこの世に命を創られた。神は創られた命を愛し、放ってはおかれなかった。この信仰こそが、旧約聖書を書いた人の人生を捉え、魂を揺さぶった喜びの思いであったのだ。天地創造を書いた創世記、その後の時代の出エジプト記。神がこの世と命を創り、今もその命を愛し育んでくださっていると信じた古代の人たちの心の躍動が伝わってくるではないか。私は、その人たちと同じものを感じ、受けとめ、同じように心の躍動を感じつつ生きたい。その、聖書が私の心に訴えかけてくるものこそを、神の働きかけとして受けとめ、信じて生きたいのである。
旧約聖書の創世記の文章では、天地創造の5日目に神は生き物を創り、そして6日目に人を創ったとある。この「5日目」とか「6日目」というような、人間が表現として使った字句そのものに拘る必要があるだろうか。著者の人間が強く感じたことは、神さまが天地を創り、その後、命を地上に創り、そして最後に神が最も愛する存在として人を創ったということである。このように神が人に注いだ特別の想いを信じて、このことを書いたのである。
生物の38億年の進化史上、人類(ホモ・サピエンス)が登場したのは最後の十数万年のことと思われる。しかし、創世記の著者が、人間だけは最後の6日目に創造されたと書いたのは、人類が進化の最後に登場したことを知っていて、そのことを言いたかったからではないだろう。著者は、神が人間を生物の中でも一番後に特別の想いを込めて創られたという信仰を述べているのだ。だから、この物語は所謂「神話」ではない。この物語は、「神の人間への愛」の信仰告白なのである。(その3へと続く。) Nat