私自身の話だが、私は今から20年前オーストラリアに駐在していた時、突然、理由もなく右目が重度の網膜はく離になった。大手術を受けたが、結局、正常視力は戻らなかった。要するに実質左目だけで生きる人になったのである。
人に、目・鼻・耳・舌・皮膚の五感の器具の中で、どれが一番大事?と聞くと、先ず全員が目と答える。そういう目だから、二個のうち一個失っても、大変不具合だ。私には、二度と世の中が立体には見えない。実は左目の視野にも相当な濁りが入っていて見にくいのだが、そこにぐちゃぐちゃになった右目の像がゴーストのように重なり、非常に煩わしい。人生の途中から、そういう人として生きることになってしまったわけだ。
友人などで、「まだ左目があるからね」と慰めてくれる人もいた。そういう人の気持ちには感謝するが、もし今度私の左目もダメになった時は、その人は何を言ってくれるのだろう?「まだ耳が聞こえるからね」だろうか。それなら一体、ヘレンケラーには何を言えるのだろうか。確かに私にはまだ左目があるが、幾らそれを思ってもそれで右目がなくなった事実が消えるものではない。「ないものを思うのでなく、あるものに感謝しよう」といった教えは、この世を前向きに生きる処世訓としてはいいのだろうが、ないものから目をそむけ忘れろというのが、本当に正しい生き方だろうか? ないようにしたのも神だとすれば、神のされたことを忘れろということにもなる。むしろ、ないという事実を、神が私に与えたこととしてきちんと見据えて、それを前提にしてしっかり生きることが出来たらと思う。実は、結果的には、私はそれに近い展開になったように思うのだ。
もう一度、目がダメになったオーストラリアの現場に戻ろう。医者から、「あなたの場合は、手遅れですから、手術しても、ちょっとね。」と宣告された瞬間、「ああこれから片目の人になるんだ」と思った。その病院の一室を今でも覚えているが、自分でも驚くほど私の心は平安であった。その時、心に浮かんだことは、「たとえ私が片目の人になったとしても、私が私である限り、神の私への愛には些かの変わりもない」ということだった。そのような重大な肉体の障碍の知らせを前にして、本当に不思議にも、却って愛の確信が深まる中にいたのである。
それ以来、私は思うようになった。私の人生は、私が主人公の物語。その物語のシナリオライターは神さま。物語のメインテーマは、私への愛だ。物語は、途中までは両目の見える主人公のストーリーになっていたが、ある時、筋書きは急展開して次の章に移る。そこからは、片目になった主人公の物語になっていくのだ。恰も物語展開上そうでなければならないかのように。今後その先を更に読み進むと、別の章に移って非常に悲劇的なシーンが待っているかも知れない。それこそ、残った左目と耳を両方一気に失う物語展開になっているかも知れない。しかし、物語の作者である神の作品全体への意図が「愛」であると確信できる限り、最後までワクワクして読み進めばよい。ハラハラする場面もあろう。しかし、バックに流れるテーマ音楽は常に愛なのである。
私は、自分の右目のことから、人生をそう見るようになった。右目の障碍を得て、障碍のある他の人への共感が高まったとか、人の弱さへの感受性が出来たとか、そういった結果的な副産物も確かにある。しかし神様は、鈍感な私にそういう共感を与えるためにわざわざ右目を奪ったのか?そういった解釈は人間としては分かりやすいが、人間レベルの恣意的な意味づけに過ぎないようにも思う。或いはイエスの荒野の試練のように、苦境を神が人間に与えた試練と解釈する手もある。それはそれで人間レベルでは分かりやすい。しかし、何も無理にそんな解釈をしなくてもいい。私の右目の視力をこうされた神さまの計画なり目的は神さまのレベルのことだから、所詮人間の私にはさっぱり分からない。しかし分からなくても全然構わない。神さまの大きな趣旨が「私への愛」であるとさえ確信出来ていれば。
「どうして、そんなに愛の確信ができるの?」と聞かれそうだ。私にも分からない。でも信仰とはそういうものではないだろうか。 Nat
人に、目・鼻・耳・舌・皮膚の五感の器具の中で、どれが一番大事?と聞くと、先ず全員が目と答える。そういう目だから、二個のうち一個失っても、大変不具合だ。私には、二度と世の中が立体には見えない。実は左目の視野にも相当な濁りが入っていて見にくいのだが、そこにぐちゃぐちゃになった右目の像がゴーストのように重なり、非常に煩わしい。人生の途中から、そういう人として生きることになってしまったわけだ。
友人などで、「まだ左目があるからね」と慰めてくれる人もいた。そういう人の気持ちには感謝するが、もし今度私の左目もダメになった時は、その人は何を言ってくれるのだろう?「まだ耳が聞こえるからね」だろうか。それなら一体、ヘレンケラーには何を言えるのだろうか。確かに私にはまだ左目があるが、幾らそれを思ってもそれで右目がなくなった事実が消えるものではない。「ないものを思うのでなく、あるものに感謝しよう」といった教えは、この世を前向きに生きる処世訓としてはいいのだろうが、ないものから目をそむけ忘れろというのが、本当に正しい生き方だろうか? ないようにしたのも神だとすれば、神のされたことを忘れろということにもなる。むしろ、ないという事実を、神が私に与えたこととしてきちんと見据えて、それを前提にしてしっかり生きることが出来たらと思う。実は、結果的には、私はそれに近い展開になったように思うのだ。
もう一度、目がダメになったオーストラリアの現場に戻ろう。医者から、「あなたの場合は、手遅れですから、手術しても、ちょっとね。」と宣告された瞬間、「ああこれから片目の人になるんだ」と思った。その病院の一室を今でも覚えているが、自分でも驚くほど私の心は平安であった。その時、心に浮かんだことは、「たとえ私が片目の人になったとしても、私が私である限り、神の私への愛には些かの変わりもない」ということだった。そのような重大な肉体の障碍の知らせを前にして、本当に不思議にも、却って愛の確信が深まる中にいたのである。
それ以来、私は思うようになった。私の人生は、私が主人公の物語。その物語のシナリオライターは神さま。物語のメインテーマは、私への愛だ。物語は、途中までは両目の見える主人公のストーリーになっていたが、ある時、筋書きは急展開して次の章に移る。そこからは、片目になった主人公の物語になっていくのだ。恰も物語展開上そうでなければならないかのように。今後その先を更に読み進むと、別の章に移って非常に悲劇的なシーンが待っているかも知れない。それこそ、残った左目と耳を両方一気に失う物語展開になっているかも知れない。しかし、物語の作者である神の作品全体への意図が「愛」であると確信できる限り、最後までワクワクして読み進めばよい。ハラハラする場面もあろう。しかし、バックに流れるテーマ音楽は常に愛なのである。
私は、自分の右目のことから、人生をそう見るようになった。右目の障碍を得て、障碍のある他の人への共感が高まったとか、人の弱さへの感受性が出来たとか、そういった結果的な副産物も確かにある。しかし神様は、鈍感な私にそういう共感を与えるためにわざわざ右目を奪ったのか?そういった解釈は人間としては分かりやすいが、人間レベルの恣意的な意味づけに過ぎないようにも思う。或いはイエスの荒野の試練のように、苦境を神が人間に与えた試練と解釈する手もある。それはそれで人間レベルでは分かりやすい。しかし、何も無理にそんな解釈をしなくてもいい。私の右目の視力をこうされた神さまの計画なり目的は神さまのレベルのことだから、所詮人間の私にはさっぱり分からない。しかし分からなくても全然構わない。神さまの大きな趣旨が「私への愛」であるとさえ確信出来ていれば。
「どうして、そんなに愛の確信ができるの?」と聞かれそうだ。私にも分からない。でも信仰とはそういうものではないだろうか。 Nat