本 いよいよ最後にもう一つ、聖書を読んで大いに「ひっかかること」が残っている。それは、「終末」とか「最後の審判」とか「キリストの再臨」といわれていることだ。

流れ星 「終末」「最後の審判」というのは、旧約聖書にも出て来るユダヤの世界観だ。この世は、最後には終末に向かう。終末には天変地異が起こり、多くの人が滅んだり、逆にそれまでに死んだ者も一旦皆生き返り、その上で神に繋がる者のみが残される。このような世界観は、仏教の末法思想にも通じるし、ゾロアスター教にもあるらしい。結構、人類が共通して描いてきたイメージのようだ。新約聖書で登場するイエスも、このことに度々触れている。「終わりの時には天変地異が起こり、悪の人間がはびこる。そこに救世主が現れ、選ばれた者を集める」と。しかも、イエスの登場が、このような終わりの時が実際に始まってきているというムードを高めた。

拍手 そこで、イエスの死後、残された弟子たちの間に、イエスの言っていた終わりの時が間もなく来る、その時イエスが再び戻ってきて選ばれた者を集めるとの期待と緊張感が広がった。しかし、それ以後、10年経っても、50年経っても、100年経ってもその時は来なかった。しかし、このイエス・キリストの再臨信仰は、根強く中世にも続き、この世が苦しければ苦しいほど「早く、終わりの時にして、イエス・キリストよ、戻ってきてください」という祈りが継続したのである。

星 そうやって2000年経った。現代の人は「終わりの時」、「キリストの再臨」に対し、どう言っているのだろう。まず、一般の人からすると、そういう話はただただ恐ろしく、一人ひとりの心や人生の問題からはかけ離れた、映画「ハルマゲドン」(最終戦争)のような話しにしか聞こえない。一方で、クリスチャンの間では、言葉どおり「まだ、いつか来るはずだ」と思う人もいれば、「あれは昔の人の世界観だから、今や聖書の終末の話しは余り着目しなくていい」と勝手に取捨選択する人もいる。また、「実はその時はイエスと共にもう来たのであって、幾ら待ってももう来ない」という解釈をする神学者(バルト)もいる。それくらい、このことはすっきりした答えの出にくいテーマである。なにせ、将来の話しだから、議論しても正解が出ない。案外明日突然そうなるかも知れないし、永遠に来ないかも知れない。明日を知らない人間には議論する根拠が全くないテーマなのだ。

笑い そこで私は言う。イエスが我々に語ろうとしたことは、本当にこの世の終わりのことであろうか?イエスはこうも言っている。「その日、その時は、だれも知らない。ただ、父だけがご存じである。(中略)だから目を覚ましていなさい。(中略)人の子(注:救世主)は思いがけない時に来るからである。」思うに、イエスのポイントは、終わりの時という将来のことにはない。終わりの時は何時のことか分からない。しかし、いつそれが来てもいいように、「今」あなたは眼を覚まし、「今」神と繋がって生きるのだと、「今」のこの瞬間の、神と人のあるべき関係を語っているのである。

OK これは、そのままイエスと人とのあるべき関係をも指し示す。イエスは復活の姿を40日間見せたが、その後は目には見えなくなった。しかし、「終わりの時には戻ってくる。その時は、いつか分からない。だから目を覚ましていなさい」とイエスは言ったのだ。私はこれは、今にも戻ってきそうなくらい、なまなましく我々の直ぐ傍にいる、だから何時もそういう気持ちでいなさいということだと思っている。今か今かというくらいに、2000年の間、常にイエスは臨場感をもって我々と共にいたのである。だから「今にも終わりの時」というのは「永遠の今」なのである。

びっくり だから、終末の中身を議論したり時期を予測したり、そういうことは本当にはあるとかないとか議論しても、全く得る所はない。人には知るよしもない。そこに本当のポイントもない。自分が生きている間に「その時」が来るか来ないかも気にしないでよい。唯一思うべきは、イエスによって指し示された、神と人間の「永遠の今」の緊張関係。そしてイエス自身が今にも戻って来そうな「永遠の今」。それを想って生きる時、我々の人生の一瞬一瞬が光り輝くということだと思う。 これが私の「終わりの時」観である。
Nat