笑顔 教会・礼拝についての私の認識の「コペルニクス的転回」の中身について書く。前に思っていた教会の礼拝は、人間が牧師の説教を聞きに集まってくる「人間の集会」だった。それでも空のかなたから神さまはそれを見守ってくれているのだろうが、集会そのものは人間の集まりであって、その場に何か特別なパワーがあるとかいったことはない。牧師の話を聞きにきた人は、個々人の理解に基づき自分で信仰を深めることになる。これが、「コペルニクス的転回」前の私の認識だった。

日の出 ところが17年前、私は、本当の礼拝はそれとは全然違うということに突然目覚めたのである。まず礼拝は人間の集会ではなく、神が人を集めた場であって、そこに招かれた一人ひとりが、その場にいることで豊かな愛と恵みと力を受ける、そういう場だったのだ。私は忘れていた。イエスが最後に言ったことを。「あなた方は、いつまでも私を思い出してパンを分け合いなさい」。「あなた方が私の名によって集まっているところには、私は必ずその真ん中にいる。」礼拝はこれだった。皆の真ん中に、目には見えないがイエス・キリストが今もいて下さり、大きく手を広げて皆を招いている。そして昔イエスがパンを割いて皆に分け与えて下さったように、そこにいる一人ひとりに、今も神の愛・恵み・力を分け与えてくれる、そういう場だったのだ。

OK それを、もう少し、一つひとつの「再発見」にくだいて書いてみたい。
●まず、自分の決断で教会に頑張って行っていたつもりが、実は神さまの「招き」で呼ばれて行っていた。礼拝は、主催者が神さまであるパーティーに呼ばれて行っているようなものだったのだ。
●個々人が勝手に集まり、それぞれが聖書講話を頭で受けとめる場で、映画館みたいなものだから、隣の人が誰でも関係ない、と思っていた。それが、神さまの招かれた人たちが「一つの群れ」として神さまに一緒に会う場だと分かった。だから隣の人との心の通い合いがとても大事であることが分かった。
●説教と言われていたもの、「聖書講話」と思っていたものは、そうではなかった。聖書からの「み言葉」を聞く中で、昔イエスと皆が親しく交わり神の愛を受けた、そのことを今、皆で想い起こし、今、群の一人ひとりにそのことが再現される場であった。イエスがパンを割いて分け与えて下さったように、礼拝という「イエスとの食卓」に招かれて座っている一人ひとりに、神の力と恵みが分け与えられる場であった。だから、たとえ耳が聞こえないとか、知的な障碍で説教が分からない人も、その場に群れの一員としているだけで、同じく恵みを受ける。頭で理解する場じゃなく、愛を浴びるように受ける場だからだ。
●そして、礼拝が終わると、受けた力と恵みで心が満たされリフレッシュされて、神さまによって教会から外の世界に「行ってらっしゃい」と送り出される。それで一週間走って、また翌週、神さまが「お帰りなさい」といって迎えてくれる、それが礼拝であった。

にっこり このように、「クリスチャンが義務的に毎週行く聖書講話集会」から「誰でも皆が招かれ、皆で一緒に神さまから力と恵みを分け与えられて送り出されていく所」というふうに、礼拝の大きな再発見があったのである。これに基づいて、私たちは自分たちの教会での礼拝のやり方の改革に着手していった。そのことを次回に。 Nat