死んで、たましいが肉体を離脱した後、どうなるか? 前にも書いたが、臨死体験(一度心臓が停止したが生き返った時の体験)をした人の無数の報告がある。多くは、まず暗いトンネルのような所に落ちて行き、そこを通過すると明るいお花畑のような所に出るという。その先で、神のような神々しい存在に会ったという人もいるし、懐かしい死んだ親が向こうの方にいたという人もいる。彼らに「まだここに来ないで戻れ」と言われたと感じた人もいる。また、何か恐ろしい地獄のようなものが先に見えたという話もある。皆、その瞬間に現世に引き戻されて、蘇生している。科学者の中には、このような体験は、死に直面した時に最後に脳内に出る特別の物質の働きで幻覚が生じ、皆それぞれが信じている死後の世界へのイメージがそこで出てくるだけと説明する人もいる。しかし、本当かどうか知らないが、たましいが抜けて浮いている時に、病院の窓の所に運動靴が置いてあるのが見えて、息を吹き返した後、それを聞いた看護婦さんが窓の外を調べると、本当に運動靴があったので皆驚いたという報告もある。幻覚とも言い切れない。
前に書いたが、坂本政道さんの著作「死後体験」シリーズでは、もっと驚くことが色々書いてある。米国のモンロー研究所方式のテープを聴いていると、変性意識状態になり、たましいが体を抜けて、宇宙や、霊界に飛ぶ。坂本氏は毎回の体験を詳しくリアルに記述している。臨死体験と重なるものもある。興味深いのはいわゆる守護霊のようなもの、本ではハイヤーセルフ(より高い自分)と書かれているが、それに会い、それに導かれること。そして、更にその上の世界に行くと、無限の愛の存在に出会っているということだ。また、宇宙の多くの他生命体にも出会い交流している。このような体験こそが、死後に広がる世界だという。
人類は大昔から、死後には極楽浄土や天国のような世界、あるいは地獄のような世界があるのではと想像してきた。恐らく、チベットの修行僧など、高度の訓練で変性意識に達し、たましいの飛躍を体験した古代の人達が死後の世界を探求し、それを人類に伝えてきたのだろう。それが、人間の罪の意識と重なり、天国・地獄というような死後の世界観を生んできたのだろう。
しかし科学の世界では、変性意識に対する認知も研究も進まない。だから、私たちの時代では、死後の世界が科学的に解明されないまま死を迎えることになると思う。結局、死んでみないと分からない。だから、考えると怖くなったりする。しかし、坂本氏の言う絶対的愛の存在、それをもし「神」と呼んでよいなら、生きている間から、そのような神としっかりつながっていることが出来れば安心だ。善行を重ねることでそれが出来ると信じる人も多い。しかし、私はあの2000年前のイエスが自らの命を十字架に捧げて証しした神の愛を信じたい。ただただ、そのような神の愛を信じきって生きることで、しっかり神とつながり、その絆は、死んで切れることはない。こう信じて生き、信じて死ぬ。そうなると、死んだ後に、その神が私のたましいをどこに連れて行って下さるかは、もう神様にお任せ。楽しみにして死ねばいいだけとなる。
死んだらどうなる? このテーマで4回に亘って書いてきた。結局、答えは「分からない」だ。しかし最後に書いたとおり、「分からないままでいい。任せられるものがあるから。」と言える生き方があり得ると思う。少なくとも私はそういう生き方を見つけられて良かったと思う。皆さんは、どうでしょう? Nat
前に書いたが、坂本政道さんの著作「死後体験」シリーズでは、もっと驚くことが色々書いてある。米国のモンロー研究所方式のテープを聴いていると、変性意識状態になり、たましいが体を抜けて、宇宙や、霊界に飛ぶ。坂本氏は毎回の体験を詳しくリアルに記述している。臨死体験と重なるものもある。興味深いのはいわゆる守護霊のようなもの、本ではハイヤーセルフ(より高い自分)と書かれているが、それに会い、それに導かれること。そして、更にその上の世界に行くと、無限の愛の存在に出会っているということだ。また、宇宙の多くの他生命体にも出会い交流している。このような体験こそが、死後に広がる世界だという。
人類は大昔から、死後には極楽浄土や天国のような世界、あるいは地獄のような世界があるのではと想像してきた。恐らく、チベットの修行僧など、高度の訓練で変性意識に達し、たましいの飛躍を体験した古代の人達が死後の世界を探求し、それを人類に伝えてきたのだろう。それが、人間の罪の意識と重なり、天国・地獄というような死後の世界観を生んできたのだろう。
しかし科学の世界では、変性意識に対する認知も研究も進まない。だから、私たちの時代では、死後の世界が科学的に解明されないまま死を迎えることになると思う。結局、死んでみないと分からない。だから、考えると怖くなったりする。しかし、坂本氏の言う絶対的愛の存在、それをもし「神」と呼んでよいなら、生きている間から、そのような神としっかりつながっていることが出来れば安心だ。善行を重ねることでそれが出来ると信じる人も多い。しかし、私はあの2000年前のイエスが自らの命を十字架に捧げて証しした神の愛を信じたい。ただただ、そのような神の愛を信じきって生きることで、しっかり神とつながり、その絆は、死んで切れることはない。こう信じて生き、信じて死ぬ。そうなると、死んだ後に、その神が私のたましいをどこに連れて行って下さるかは、もう神様にお任せ。楽しみにして死ねばいいだけとなる。
死んだらどうなる? このテーマで4回に亘って書いてきた。結局、答えは「分からない」だ。しかし最後に書いたとおり、「分からないままでいい。任せられるものがあるから。」と言える生き方があり得ると思う。少なくとも私はそういう生き方を見つけられて良かったと思う。皆さんは、どうでしょう? Nat