笑顔 私の教会の男の方で、もう80過ぎの人がいる。クリスチャン暦50年以上なのであるが、その方は常々言っていた:「キリスト教はご利益(りやく)宗教ではないということで、信じてもご利益はないように言う人がいるが、もっとはっきりご利益があるというべきだ。」と。しかし、その方は、どういうご利益があると思っているのか、余り言われなかったので、私もそれ以上つっこまなかった。

落ち込み その後、その方の奥様も歳をとられ、ずっとベッドで寝たきりになった。自由な意思疎通ももうほとんどないらしい。奥様のためにずっと祈り続けているのだけれど、それ以上の意識低下もないが回復もない。そのまま長い。その方が奥様のことを強く思われているので、私も常日頃、その方と奥様のことを祈ることが多い。先日、日曜の礼拝の後のお茶飲みながらの立ち話で、その方と話す機会があった。私から「最近、私のブログの記事で『信じて何かいいことあるのか?』とのテーマで、何回かシリーズで書いていましてね。貴方が前から『信じると必ずいいことがある』と言われているのを思い出しましたよ。」と切り出した。

びっくり すると、驚いたことに、その方は「ああ。あれは間違いだったと気がつきました。あれは、自分の生活の中の出来事を、自分の都合のいいように解釈して、これこそ神様の為されていることなどと、こじつけていただけだったように思います。神様が私の言いなりになって、何でも言う通りして下さるわけがない。神様の愛は、もっと大きなものだったのですね。一つ一つの出来事での神さまのみ心は分からない。でも、全体として、神さまが悪いようにされるわけがない。それを信じる。それこそが信じるということの意味だったんですね。」そう言われた。病床で寝たきりで余り反応もない奥様と毎日対面し、奥様の回復を毎日祈るが、神さまは必ずしも人間の祈る通りにはして下さらない。しかし、そうやって生きる毎日の中で、自分にも奥様にも神の愛が満ち溢れていることに気づかされたというだろうか。

にっこり 信仰というものは、50年たっても、60年たっても、間違いに気がつくこともあれば、新鮮な発見もある。そうやって“進化”しながら生き続ける。それが信じて生きるということなのかも知れない。それで私は、その方に、「貴方の信仰もまだまだ進化中なのですね。」と。その方は、にこっと微笑まれた。いい笑顔だった。  Nat