最近思うのだが、お年寄りの方は、とにかくいつも帽子をかぶっている。5人くらいが集まっていて、5人全員が帽子をかぶっているといったことはしょっちゅうある。散歩する老夫婦も、ほぼ必ず両方とも帽子をかぶっている。なぜだろう。もちろん、夏は日射を避けるため、冬は防寒というような実際的な目的もあるだろう。お年寄りは、若い人よりも、暑さ・寒さに弱いから。しかし、実は暑くも寒くもない春や秋でも、お年寄りは帽子をかぶっている。それはむしろ習慣であろう。ではなぜ、習慣になっているのか。
人類の歴史をひもどくと、大昔は、どうも帽子は実用よりも、そもそも王族や貴族などの権威の表現として人類に導入されたものと思われ、働く平民は髪を束ねる布の類程度で、頭をすっぽり覆う帽子や冠の類には縁がなかったようだ。エジプトやギリシア、古代ローマなどはそうだ。しかし、中国の漢の頃は、少なくとも華北人は、平民も髪をきちんと結い、その上で冠をかぶる風習があったらしい。髪には生命力が宿ると信じられ、それを大切に保護する趣旨だそうだ。
一方、近代になってくると、男の場合は軍隊を筆頭に帽子をかぶることが一つの正装となる。学校の制服は軍服に起源を持つようだから、学校でも統一的学帽をかぶらせることになる。野球チームなどでも統一された帽子をかぶる。米国でも一昔前は、男は皆帽子をかぶって外出した。皆、制帽のように同じような帽子をかぶるのだ。所属する団体、あるいは男であることを、共通の帽子形式で表現したり誇示するのである。
しかし、軍隊の文化の流れを汲まない女性は違うようだ。女は、近代でも男ほど帽子をかぶる社会的規範はない。女性は、むしろ昔の貴族のファッションの流れを汲み、ファッションとしての帽子を、特に着飾る場面で個人的にかぶる。日本でも美智子様の帽子姿が、女性の帽子を流行させた。女性の場合は、皆同じ帽子をかぶるのではなく、かぶりたい個人がそれぞれ個性的な選択をする。
という風に考えてくると、帽子というものは、前述の中国の漢の時代の例のようにやや宗教がかった思いもあろうが、基本的には男の場合は社会的規範、女性の場合はファッションであろう。いずれにせよ、自分、ないしは自分の所属する団体や階級の見え方に威厳を添えたり、際立たせるという、いわば「自己表現・誇示」が帽子の目的である。体の中で自己表現の部位としては、足や手や体もあろうが、何といっても、人間を識別する最たる箇所は顔だ。その顔に装飾をかぶせて、自分や団体や階級を目だたせようというのが帽子であると思われる。服は体を覆おう実際的な目的がベースだ。しかし、帽子は、もっぱら自己表現・自己誇示。そして、男の場合はそれが社会的規範になっていたということだ。
このようにして、明治以降、日本でもその流れを汲んで、男は帽子をかぶるのが外出の姿の基本になった。だから、お年寄りは今でも帽子をかぶる。別におしゃれではなく、「きちんとした身なり」のつもりなのである。(もっとも、女性のお年寄りもよく帽子をかぶるのはなぜか?今、ひとつ分からない。もう少し探求してみる必要がありそうだ。)
一方、今や男でも、お年寄り以外の帽子着用率は大きく落ちている。通勤の風景で1000人いてもお年寄り以外で帽子をかぶっている人はゼロだろう。精々、街中で遊び的なファッションで毛糸の帽子をかぶっている若者が若干名いるだけだ。「身なり」で画一的な規範に拘束される時代は終わったからだ。自由に着飾るとなると、ヘアスタイルを崩す帽子、昔風なイメージがある帽子や制帽のようなものはなかなか選択されない。かくして、今やお年寄り以外は帽子をかぶらないのである。ちなみに、私も帽子というものは一つも持っていない。そういう意味では、帽子かぶらない文化は、画一的規範から自由になろうとしている文化ではないかと思う。
Nat
人類の歴史をひもどくと、大昔は、どうも帽子は実用よりも、そもそも王族や貴族などの権威の表現として人類に導入されたものと思われ、働く平民は髪を束ねる布の類程度で、頭をすっぽり覆う帽子や冠の類には縁がなかったようだ。エジプトやギリシア、古代ローマなどはそうだ。しかし、中国の漢の頃は、少なくとも華北人は、平民も髪をきちんと結い、その上で冠をかぶる風習があったらしい。髪には生命力が宿ると信じられ、それを大切に保護する趣旨だそうだ。
一方、近代になってくると、男の場合は軍隊を筆頭に帽子をかぶることが一つの正装となる。学校の制服は軍服に起源を持つようだから、学校でも統一的学帽をかぶらせることになる。野球チームなどでも統一された帽子をかぶる。米国でも一昔前は、男は皆帽子をかぶって外出した。皆、制帽のように同じような帽子をかぶるのだ。所属する団体、あるいは男であることを、共通の帽子形式で表現したり誇示するのである。
しかし、軍隊の文化の流れを汲まない女性は違うようだ。女は、近代でも男ほど帽子をかぶる社会的規範はない。女性は、むしろ昔の貴族のファッションの流れを汲み、ファッションとしての帽子を、特に着飾る場面で個人的にかぶる。日本でも美智子様の帽子姿が、女性の帽子を流行させた。女性の場合は、皆同じ帽子をかぶるのではなく、かぶりたい個人がそれぞれ個性的な選択をする。
という風に考えてくると、帽子というものは、前述の中国の漢の時代の例のようにやや宗教がかった思いもあろうが、基本的には男の場合は社会的規範、女性の場合はファッションであろう。いずれにせよ、自分、ないしは自分の所属する団体や階級の見え方に威厳を添えたり、際立たせるという、いわば「自己表現・誇示」が帽子の目的である。体の中で自己表現の部位としては、足や手や体もあろうが、何といっても、人間を識別する最たる箇所は顔だ。その顔に装飾をかぶせて、自分や団体や階級を目だたせようというのが帽子であると思われる。服は体を覆おう実際的な目的がベースだ。しかし、帽子は、もっぱら自己表現・自己誇示。そして、男の場合はそれが社会的規範になっていたということだ。
このようにして、明治以降、日本でもその流れを汲んで、男は帽子をかぶるのが外出の姿の基本になった。だから、お年寄りは今でも帽子をかぶる。別におしゃれではなく、「きちんとした身なり」のつもりなのである。(もっとも、女性のお年寄りもよく帽子をかぶるのはなぜか?今、ひとつ分からない。もう少し探求してみる必要がありそうだ。)
一方、今や男でも、お年寄り以外の帽子着用率は大きく落ちている。通勤の風景で1000人いてもお年寄り以外で帽子をかぶっている人はゼロだろう。精々、街中で遊び的なファッションで毛糸の帽子をかぶっている若者が若干名いるだけだ。「身なり」で画一的な規範に拘束される時代は終わったからだ。自由に着飾るとなると、ヘアスタイルを崩す帽子、昔風なイメージがある帽子や制帽のようなものはなかなか選択されない。かくして、今やお年寄り以外は帽子をかぶらないのである。ちなみに、私も帽子というものは一つも持っていない。そういう意味では、帽子かぶらない文化は、画一的規範から自由になろうとしている文化ではないかと思う。
Nat