ドイツが最初にスペインで無差別爆撃をした時、また日本軍が中国人を無差別爆撃した時、「戦争だからやむを得ない」という思いだけでそれが出来たであろうか。私はそこに、相手の民族に対する蔑視や憎悪の心があったのではないかと思うのである。心の問題だから、もはや良くは分からない。しかし、日本軍が中国の奥深くにまで攻め入り1000万人規模の中国人を死に追いやった時、世界・アジアの平和のため、日本の利権のための「已む無い尊い犠牲」と思っただけであろうか。「チャンコロ」という侮蔑表現があったように、中国人を見下し「あいつらは死んでもしょうがないんだ」とも思ったのではないか。勿論、逆に日中戦争に至るまでの経緯の中で、中華思想の中国人が中国在留の日本人市民を虐待した背景もあり、侮蔑はお互い様である。しかし、相手の民族への侮蔑意識が全くなければ、相手国の一般市民に対して無差別に爆弾を落とすことなどはとても出来るものではないだろうと思う。
米国の日本本土での無差別大空襲、そして、そのとどめを刺す原爆投下。「黄色人種ジャップ」への侮蔑が無ければ、そこまでは出来ていなかったのではないか。無差別攻撃という一般の日本人の虐殺を決めた米軍のトップの心の中に、悪く言うと「日本人め、ざまあみろ!あいつら死ねばいい」というのに近い心がないと、なかなか決断できないようなことではなかったか。また、ナチスのユダヤ人大虐殺。これも欧州のゲルマン民族のユダヤ人への敵対意識・蔑視という、長い歴史を持つ感情が背景にあっただろう。商売のうまいユダヤ人の部落(ゲットー) が欧州中にあった。そしてゲルマン民族たちは、そんなユダヤ人を嫌い、「キリスト殺しの末裔」と罵り、虐待を正当化してきた。アウシュビッツ(ユダヤ人大虐殺)は、そのような心を基にして起こったことだ。そして、現代にもそれが続く。イスラムの過激なテロ集団は、ついにはアメリカ本土へ、ハイジャックしたジェット機による玉砕攻撃を実行した。市民も含めた米国人への憎悪がなければ出来ないことだ。
戦争やテロにでは必ず一定の「理念」が掲げられる。大東亜共栄圏、米国式の自由の防衛、キリスト殺しのユダヤ民族の抹消、イスラムの正義・・・。しかし、そのような理念の下に何万人もの市民を虐殺できる「人の心」は理念だけでは説明できない。そこには、必ず「他民族への侮蔑・憎悪」があると思う。そして「他民族への侮蔑・憎悪」の心は、同じ民族の中でも隣にいる「うさんくさい奴」への侮蔑、ダメな奴への軽蔑の心と同じ根を持つ。人は昔から、自分でも家族でも仲間でもない「あいつら」を侮蔑し、それによって自分達を“高めて”生きてきた。そのような人間の心が戦争を生み、そして戦争の中で無差別大虐殺まで生む。何度も言うが「戦争は人の心の中で生まれる」(ユネスコ憲章)のである。そのような心が私の中にもあることを思い、皆と一緒に神さまの赦しと憐れみを祈りたい。 Nat
米国の日本本土での無差別大空襲、そして、そのとどめを刺す原爆投下。「黄色人種ジャップ」への侮蔑が無ければ、そこまでは出来ていなかったのではないか。無差別攻撃という一般の日本人の虐殺を決めた米軍のトップの心の中に、悪く言うと「日本人め、ざまあみろ!あいつら死ねばいい」というのに近い心がないと、なかなか決断できないようなことではなかったか。また、ナチスのユダヤ人大虐殺。これも欧州のゲルマン民族のユダヤ人への敵対意識・蔑視という、長い歴史を持つ感情が背景にあっただろう。商売のうまいユダヤ人の部落(ゲットー) が欧州中にあった。そしてゲルマン民族たちは、そんなユダヤ人を嫌い、「キリスト殺しの末裔」と罵り、虐待を正当化してきた。アウシュビッツ(ユダヤ人大虐殺)は、そのような心を基にして起こったことだ。そして、現代にもそれが続く。イスラムの過激なテロ集団は、ついにはアメリカ本土へ、ハイジャックしたジェット機による玉砕攻撃を実行した。市民も含めた米国人への憎悪がなければ出来ないことだ。
戦争やテロにでは必ず一定の「理念」が掲げられる。大東亜共栄圏、米国式の自由の防衛、キリスト殺しのユダヤ民族の抹消、イスラムの正義・・・。しかし、そのような理念の下に何万人もの市民を虐殺できる「人の心」は理念だけでは説明できない。そこには、必ず「他民族への侮蔑・憎悪」があると思う。そして「他民族への侮蔑・憎悪」の心は、同じ民族の中でも隣にいる「うさんくさい奴」への侮蔑、ダメな奴への軽蔑の心と同じ根を持つ。人は昔から、自分でも家族でも仲間でもない「あいつら」を侮蔑し、それによって自分達を“高めて”生きてきた。そのような人間の心が戦争を生み、そして戦争の中で無差別大虐殺まで生む。何度も言うが「戦争は人の心の中で生まれる」(ユネスコ憲章)のである。そのような心が私の中にもあることを思い、皆と一緒に神さまの赦しと憐れみを祈りたい。 Nat