年末の休みになってから、ある本を読んだ。五木寛之と、カトリック司祭の森一弘氏との対話を本にした「神の発見」(角川文庫)だ。その本で森氏が書いている。明治時代に日本に伝道で来たカトリックの人たちは、17世紀のオランダの神学者ヤンセンという「聖なる人生を厳格に送る」ことを重視した、特にフランス系の人たちが主であった。そこで日本のカトリック教会は品行方正主義の人たちが多くなってしまったという。私はプロテスタントの方なので、このような日本のカトリックの歴史を知らなかったから、このヤンセン主義のことは新しい発見だった。
しかし、プロテスタントの方でも類似のことが言える。日本に来たプロテスタント伝道師の多くは、アメリカ(あるいはイギリス)のピューリタンの流れを汲む人が多かった。しかも、明治の文明開化で西洋文化のトレンドの中で入ってきた。そこで英語や西洋文化を勉強したいインテリたち(そもそもの真面目人間)がキリスト教の担い手になった面があった。要するに英語で言うTop Down、つまり上から、外から新しい文化的枠組みとしてかぶせられたものだったのである。イエスの運動はユダヤの下層階級の日々の生活から湧き上がってきたBottom-upのものだ。しかし、日本では、一種の西洋文化開明運動的に上から降ってきたキリスト教であった。そして日本に来ていた伝道師がピューリタン的な向きが強く、それを受ける日本人側も当時のインテリ真面目人間が多かったから、結果はもう見えている。外から見ると、いかにも品行方正、謹厳実直なクリスチャンというイメージになるのも無理がない。
私の父(学者だが牧師でもあった)も、そのような明治のクリスチャンの流れを汲み、お酒もタバコもやらなかった。パチンコ、賭け事もしない。しかし、イエスの当時も皆で親しくワインを飲んでいたわけだし、お酒を飲む、飲まないとクリスチャンであることと何ら関係はない。(注:パウロはさすがに手紙の中で「泥酔はやめましょうね」といっているが・・。)また、タバコは健康に悪かろうが、タバコを吸う、吸わないと信仰とは直接関係ない。タバコはイケナイが、日本茶はいいとか、ガムはいいとか・・誰がどう決めるのか?アホらしい。しかし、ひたすらに神を思って生きる上での一つのスタイルとして、ある人が酒・タバコを辞めて、禁欲的、修道院的に生きるとすると、それも個人の選択としてはないではないだろう。しかし、クリスチャンは全てお酒を飲むべきでない・・などということになると、イエスが命をかけて戦った、あのユダヤ教支配者階級の戒律と違わなくなってしまう。そういえば、父も私に、酒・タバコ禁止などと押し付けはしなかった。だから、私は両方やった。(タバコは辞めたが。)
ということで、日本では、クリスチャンは、酒・タバコもやらない謹厳実直/品行方正人間というイメージなっているようだ。だから、教会には近寄りたくないらしい。とすると非常に残念だ。教会は、品行方正になれないけど神に愛されたいという人が来る所なのに。(もちろん、クリスチャンは神の愛があるから、どんなに悪いことをしても許されると思っているのですね・・・などというのも大いなる誤解だが。)この手の誤解を解き、教会も捨てたもんじゃないという風に持っていければと思う。そういうわけで毎年、ライブもしている。もしかして、あなたも誤解してませんでしたか? Nat