笑い、泣きとくると次は「怒り(いかり)」だろう。
笑い、泣きと大きく違うのは、怒りは動物にも幅広く見られるもので、比較的原始的なルーツの感情のようだ。動物の場合、ある欲求に基づく行動を阻害された場合に起こると説明されている。そして、人間の場合、更にそれが発達して、自分が何らかの危険にさらされたという意識が怒りを生むとされている。しかし私はこの「危険」説はぴんと来ない。アフリカでライオンが私の近くで私をにらみつけたとして、私としては自分の身に危険が迫ったと認識するだろうが、その時に怒りの感情がわくだろうか? 恐怖ばかりで怒りは殆どないはずだ。私の感じでは、怒りは人間の自我、つまり心の拠り所を侵害された時の反応ではないかと思う。電車に乗る時にきちんと列を作って乗ることが社会として大事だという価値観をずっと守ってきた人にとって、列の後ろから割り込まれると、自分の価値観を侵害・否定された気がするから怒りが湧く。自分に危険が差し迫るからではなく、実質的には危険がなくても、簡単にいうと「自分を否定された」と思ったら怒るのである。そういう意味では「自我意識に危機感がある場合」と解釈すればいいのではないか。
笑い、泣きと同様に、怒りの身体的な側面だが、ものの本によると、そのような状態に対して戦うとか一気に逃げるとかの瞬発的な対抗行動をとるのに必要なアドレナリン的なものが、怒ることによって体の中に分泌される、そういうその瞬間だけの効果が一つ。もう一つは、状況に対抗するための緊張状態を維持するモードにするという、時間的に持続する効果があるらしい。この怒りっぽいモードの持続こそが、怒りが集積し、「考えれば考えるほど・・」という形で段々余計に不愉快になり、余計に腹立たしくなる理由のようだ。いずれにせよ、このような怒りの効果は動物も同様だから、涙ほどの不可思議な面はなさそうだ。
もう一つ、笑いや泣きと違い、怒りにだけ特有のことは、それが基本的に否定的な感情とされることだ。義憤というのもあるが、基本的には怒りは、人への憎しみとなり、争い・殺害などに繋がる「悪い心」とされる。従って、怒りについて書かれているものの大半は「どうやって怒りを鎮めるか」についてだ。笑い、泣きを鎮める方法というのは殆ど議論されないが、怒りはとにかくコントロールすべきものとされる。いわば動物的なものというわけだ。でも、怒りの鎮め方については、インターネットでも「怒りを鎮める10の方法」とかいった記事がやたらとある。気晴らしをして忘れるとか、相手の人のことを哀れな奴だか愚かな奴だとして自分と同列には置かないとか、宇宙の大きさの中でちんまいちんまいと唱えるとか・・・色々あるが、悪いが余り興味が湧かない。
勿論、私も怒る。無我の境地に達さない限り、人は怒る。しかし私が思うに、それをどうやって鎮めるかというハウツーよりも大事なことがあると思う。それは、自分が怒ったとき、自我構造の中のいったい何が侵害されたと思ったのか、それを内省的に見つめてみることだ。つまり、怒りは自分の心の構造を浮き彫りにしてくれる道しるべであると思う。例えば「君は奥さんのいいなりだ!」と言われて逆上する人は、自分の心の中に奥さんに対抗して自分の男ぶりを無理にでも誇示しようという戦いをずっとしてきている人、それによって何とか微妙に自我が保たれているという人だろう。自分が何で激しく怒るのかを知ることによって、自分の心の構造を良く知ることが出来るのである。その結果、あくまでもその結果だが、怒りは、怒っている自分を見つめることで比較的コントロールできるようになっていくようにも思う。
ということで、怒りは余り話として面白くない。笑いと泣きの方がはるかに面白い。今度、このブログでこの続きを書くときは、笑いか泣きに限ることとしよう。その方が楽しいから。ハイ。 Nat