今年の5月のScience誌に、生命を人工的に合成したとの記事が出た。アメリカのVenter博士が、ある細菌の染色体を、彼が化学的に合成した人工の染色体に置き換えてみたところ、その置き換えられた細菌がちゃんと増殖したというニュースだ。テレビでも増殖した細菌のコロニーの青い色の画像が報道されていた。彼は「これで生命というものも、単なる化学的に合成できるものに過ぎないことが立証されたとするとどうだろう?」とコメントしていた。

 

 これで命のある生きものも、石ころなどの無機物の物質と変わりない、ただの肉の塊りであることが立証されたのであろうか? 私はこのブログで何度も書いている通り、「生命体にはそれを支える“乗り物”としての物質が必要だが、物質だけでは生命にはならない」という仮説を持っている。このブログで過去に何度も書いてきたとおり、少なくとも我々ヒトという生き物については、死ぬ瞬間の臨死体験、エクトプラズム(たましい)の離脱現象や、輪廻転生で赤ちゃんにたましいが入り込む瞬間の体験など(例えば本年105日の当記事ご参照)がある。また、植物も含めた全ての生命の放つオーラ(キルリアン現象も含めて)。このような「たましい」「オーラ」といったものへの科学的な研究がもっと進むと、生き物及び命は、今はまだ解明されていない「いのち」というものが「肉の塊り」という乗り物に乗って成立っていることが分ってくる可能性があるのではという仮説だ。

 

この仮説では、「いのち」は、栄養を取り込み自己増殖する物質を乗り物として必要とする。つまり、乗り物となる生命物質がこの世に発生すると、そのつど、どこからか(別次元の世界?)からか「いのち」がその生命物質に吹き込まれ宿るという仮説だ。太古の昔の海の中で何らかの過程で自然にそういう生命物質(乗り物)が発生したので、そこに「いのち」が宿った。その後、その生命物質(乗り物)は進化を遂げ、人間も出来たが、人間を含めて、生命物質(乗り物)に「いのち」が外から宿るという構造は変わりない。

 

 今回の実験は人工DNAを天然DNAに置き換えてみただけの実験であるが、本当に一から全て生命物質が人工的に合成されたとしても、それは何ら驚きではない。太古の昔の海の中で起こった出来事が、永遠に再現できないというほうがおかしい。まさか、神さまが太古の海の中に降りてきて、指でこねて最初の単細胞生物を創造したわけではあるまい。最初の単細胞生物も、この世の物理的・化学的な物質の法則の中で発生したはずだ。神はそういう法則も含めて天地を創造したのだから、神が生命を創ろうとする場合、自分の創造した法則の中で生命物質を発生させたと考えるのが自然だ。だから今人間が、同じくそういう法則の中で、なんとか人工的に生命物質を合成できないかと努力するのは当然である。今回Venter博士がそれを部分的に成し遂げたのは大変素晴らしいことである。

 

 ではVenter博士が合成した細菌は「いのち」なのか? 私の仮説からすると、合成された細菌が「いのち」の宿れる乗り物としての生命物質(外から栄養を取り込み自己増殖できる物質)として合格なら、それが出来た瞬間に、そこにも「いのち」が宿り、ちゃんとした生命として動き出す可能性があると思う。しかし、Venter博士は、乗り物の物質を合成しただけであり、「いのち」を合成したわけではない。「いのち」は物質のDNAの解明に比して、ほとんど何も解明されていない。どこから来て、どこに帰るのか、人類は未だ知らない。ましてはその合成など全く及びもつかない。

 

 最後に、なぜ「いのち」の科学的解明が進まないのか?というと、理由は二つ。一つ目は研究が難しいことだろう。DNAなどの物質をいじくる研究ならいじくっている間に何らかの発見もあり得る。しかし「たましい」とか「オーラ」とかは扱いが難しい。更に、二つめは、「たましい」「オーラ」から「いのち」に繋げる仮説が、結局、研究の結果全く誤りであった場合、研究に捧げた研究者の人生は無駄になり、人の笑いものになるだけだから、研究者がそういうリスクをとらないということだ。というか、もう少し簡単に言うと、そんなテーマは危ういかマユツバなので関わりたくないという態度だ。前にも書いたが、もし私に巨万の富が転がり込んできたら、ただちに今の仕事を辞めて、Nat研究財団を結成、私の仮説につき巨額の予算で研究開始するであろう。しかし、どうも今の状況ではこれは全く実現しそうもない。誰か、お金とガッツのある人、研究して頂戴!!  Nat