以前このブログで「神は妄想?」と題する記事を11回シリーズで書いた。(20071228日から200815日までの記事。)英国の有名な生物学者であるリチャード・ドーキンズが、「科学とは別に神はある」と主張する神学者やキリスト教原理主義者のことを「世をたぶらかす悪」として痛烈批判して書いた『神は妄想』という力作がある。私のブログ記事は、それに関する私のコメントを整理して書いたものだ。クリスチャンである私ながら、ドグマの固まりの神学者たちに辟易としているドーキンズに対し、気脈としては多いに通じるものがあった。一方で、ドーキンズがいわば「逆のドグマ、科学ドグマ」に陥っているのが残念であった。(詳しくは上記記事ご参照。) 

 私のあの記事から4年半。今度は米国の高名な天文学者カール・セーガン博士(1934-1996)の書いた「悪霊にさいなまれる世界 上・下」を読んだ。セーガン博士は、ドーキンズを更に上回るとも思える博識であり「知の巨人」である。彼もまた、神学者・キリスト教原理主義者や超常現象信奉者などに対して、徹底的な科学的懐疑の目を向けている。しかし、私がセーガン博士に感心したのは、逆ドグマに近いドーキンズと違い、セーガンは超常現象やUFO体験などにつき、非常に詳しく冷静に研究・調査もしていること。また、彼は科学者が、宗教や超常現象を否定しようとする余り、逆ドグマに陥る危険性があることを自覚すると同時に、更には、ナイーブに信じて生きている人を真っ向から否定することで、その人たちの心までを壊してしまうことにも配慮すべきといっている。この点で、ムキになっていたドーキンズよりも一段上の人と思われる。 

 まず感じることだが、ドーキンズやセーガンが、このような大著を書かねばならないのは、米英においては教条主義的な神学者やキリスト教原理主義者、あるいは、UFO誘拐体験者などと、科学者との間で、真っ向から否定しあう対立があるからであろう。これに対し、日本の文化は面白い。日本では進化論を否定するような宗教的原理主義者は極く少なく、アメリカなどと違って「普通の科学的常識」が国民の平均的認識である。しかし、それと、たましいとか、神社仏閣への祈願とか、あるいは多少とも超常現象的なものへの関心などが、日本人の頭と心の中では、特に対立的なものとならないのだ。いわば「別腹」。そもそも、神道だった日本に仏教が来ても神仏混交で両方許容してしまうし、近代のキリスト教も、文化的に取り入れてしまったように、融通無碍の民族だ。科学的常識と宗教的な思いとが、余り矛盾しない。論理を突き詰めることが嫌いな民族性があるので、自分の中で論理矛盾に至らない。超常現象を目の敵にする大槻義彦教授みたいな人もいるにはいるが、ドーキンズやセーガンのような緻密な反論体系をもって大著を表わすというものではなく、もっぱらTVなどでの受け狙いの人だろう。日本の科学者はドーキンズやセーガンのような活動までをするニーズがないのであろう。 

 さて、次回以降、私の感心したセーガン博士が述べていることに、もう少し踏みこみながら、私の思いを改めて述べていこう。  Nat