セーガン博士は宗教への強い疑義を提唱している。伝統的なキリスト教だけではない。ご存知のとおり、アメリカでは特に西海岸でNew Ageと言われるスピリチュアル運動が盛んだ。セーガン博士は、物質とは別の「たましい」なるものの存在には科学的証拠が見つかっていないことを説く。更に、神がこの世に介入していることを証拠づける事実もまだ見つかっていないと説く。 

 この辺は、リチャード・ドーキンズの本にあるのと似通っている。祈りに効果がないことを実験的に立証した話を書いたドーキンズに対する私の反論は、2007123031日の当ブログ「神は妄想? その4、その5」をご覧頂きたい。それは、セーガンの「神のいる証拠が未だ見つからないこと」にも同様に向けられる。しかし、私がセーガンに着目したいのは、ドーキンズが逆ドグマで「神は妄想」と決め込むのに対し、セーガンは、「今のところ、まだ証拠がない」との謙虚な態度をとっていることだ。そして、更に私の関心を惹くのは、セーガンが多くの超常現象などを調べた結果として、以下の3点はまだ全てがニセモノと割り切れないものがあると認めていることだ。(1)コンピューターの乱数発生に対して念力が(若干の)影響を及ぼせること、(2)感覚を遮断された人が、自分に向けられた思考やメッセージを受信できること、(3)幼児が生まれ変りとしか思えない前世体験を詳しく持っていること。セーガンは、これらは科学でまじめに調べてみる価値のある事柄であると書いている。 

 この辺から、ドーキンズへの反論に続く、私の一貫した主張を書いていこう。私は、「神が「宇宙の精神」で遠くあるだけなら、私たちの人生に関係もなく、信じる意味がない。イエスキリストが証ししたように、神は我々の人生の只中に愛をもって係わり、我々をも我々の道筋をも変えたもうと信じることにこそ意味がある。」と言っている。つまり、神なるものはこの世に係わりを持ち得るということだ。ここからが大事なのだが、神は科学で説明できない超自然的なやりかたでこの世に係わりを持つのではなかろう。もし超自然に見えるなら、それは科学がまだその現象を解明できていないだけであろうと考える。この世は神が創造し、この世の物理・化学的な全ての原理も神が創造したとしよう。神がこの世に係わりを持つのに、自分が創造した原理だけでは不十分で、わざわざ原理破りの例外を発生する必要があろうか? 神のなしたもう業は、勿論、神自身が創造した原理を神自身が発揮して行うものである。しかし、人間は、まだ神の創造した原理の一部しか解明できていないということだろう。 

 セーガンの3つの未解明の現象もそれに関係するかも知れないが、私が注目する「人類が全く肉薄できていない最たる分野」は、1.偶然事象と、2.意識・霊である。セーガンもドーキンズも科学を信じる人たちだが、彼らが特に書かない科学の無力分野がある。偶然事象だ。科学は、法則性をもって確実に繰り返される事象にしか威力を発揮できない。偶然事象には、ある意味で関心がない。量子力学の分野まで含めて、右になるか左になるかが確率的偶然でしか決まらない事象が多多あるところ、科学はそれを「結果的にそうなった偶然」としか言えない。卑近な例でいうと、自分の顔の左に大きなほくろがあって醜いのを、科学者に何故?と問うても「偶然」としか言わない。偶然の背後には何もないのか? 科学は沈黙している。しかし、偶然事象にも「百匹目のサル」的な不思議な傾向があり得ることも知られている。化学物質の右・左の光学的異性体の合成される偶然的確率が、ある時にがらっと変わるなどという事象も経験されているという。信憑性は分らないが。偶然の背後に、まだ科学の解明していない未知の「場」の作用がある可能性は誰にも否定も肯定も出来ない。神がそのような場を経由して偶然を左右している構図はあり得るかもしれない。それでも、偶然事象の範囲でのことだろうから、神の働きで偶然事象の確率に有意差までが出るようなこととして為されるかどうかは分らない。 

 もう一つはセーガンの3つに関係のある「たましい・意識」の世界だ。 ちょっと長くなるので、ここから次回。 Nat