アメリカでの同性婚の合法化。
Facebook等でも「同性愛は罪か?」との、クリスチャンの討論会みたいな記事も出ている。意見としては、『レビ記に「女と寝るように男と寝てはならない」とあるから罪だろう』とか、『いや、聖書の内容は時代背景を考慮して真の意味を汲むべき』とか、『神は同性愛は憎むが同性愛者のことまでは憎まない』とか、『同性愛を罪と言うことで、同性愛者を教会から排除してしまっている』とかだ。
私の意見: レビ記に書いてあることを全て字句通り受け入れるのか? レビ記には「もみあげをそり落としてはならない」、「二種の糸で織った衣服を着てはならない」等の規定もあれば、捧げものや食事に関する超細かい規定もある。レビ記の「男と寝るな」をそのまま受け入れるなら、もみあげ規定なども全て受け入れないと一貫性はない。しかし、聖書から自分の都合のいいところだけ摘み食いするのも良くない。
聖書はその全体を受けとめ、全体が私たちに語りかける真理を受けとめるものである。その真理とは、『人は罪深い。しかし神は愛であり、イエスキリストの十字架により人は救いに招かれている』ということに尽きる。その真理から言うと、同性愛が罪深いなら、異性愛も罪深い。男女の愛も人間の愛だから、相手を貪り自分の快楽を追及するという要素を常に含んでいる。逆に同性愛でも、神に愛され創られた命同士で慈しみ合う愛もあり得るだろう。人の行いを形で裁くのではなく、その本質に愛があるかで見なさいというのこそ、イエスが示したことではないか。だから、私としては異性愛も同性愛も、罪にも愛にもなれると思う。 Nat
●追記: 敢えて追記しますが、同性愛者といった「型」でその人にレッテル貼り、「罪人」と決めつけることこそ、イエス様が最も悲しまれたことと思います。しかし、クリスチャンの中でも、「XX=罪。だから、自分はXXを避けて生きている。よって、自分はいいクリスチャン」という思いでずっと生きてきてしまっている人が結構いるのです。そういう人に「XXは罪と限らない。むしろ、罪はそういう ”型” ではなく、そこに本当の愛があるか?で決まるのです」と言った時、そう言われた人は、結構、これまでの信念が揺らぎ、傷つくのです。だから、こういう問題は難しいのです。でも、黙ってばかりいてもイケないので、発言します。
●●更に追記: イエス様が今おられたら、LGBTの人とも食事を共にされていたであろう・・という意見を良く聞きます。それはその通りですが、何もイエス様がLGBTの人には「罪はない」と言われているのではないでしょう。何故なら、イエス様から見ると全ての人が罪人だからです。イエス様はLGBTの人にも、この私にも、「あなたも含めて、人間には皆な罪がある。だから私は罪人を招くために世に来たのだ。」と言われるのです。ちなみに、私は同性愛者ではないですが、イエスが言われた通り、女性を”情欲の目”で見てしまう罪人です。だから同性愛者、異性愛者に依らず、皆に罪があるのです。問題は、「自分の罪は軽いが、LGBTの人の罪は重い」と言わんばかりに、LGBTなどの人を裁くクリスチャンです。罪を裁くも許すも神のみが出来ることでしょう。間違いを犯していると思われる友が居れば、愛をもって指摘して上げるのはいいでしょうが、人が人を「罪人」と裁くのは、それこそが、最も深い罪だと思います。