★キリスト教の教会には、重い病気の病床にあり、洗礼を受け、神さまと繋がっている確信をもって人生の最後の時を迎えたいという方について、そのご家族からの相談が来ることがある。教会として、お会いしたことのない方であっても、基本的に、その方の差し迫った中での信仰を尊重し、洗礼を授けてきていると思う。

● これに関連、教会に関係してない人にとっては、「へ~~、そうなの?」に過ぎないことかもしれないが、以下のこと書いておきたい。

(1)洗礼というのは、イエス・キリストを自分の救い主と信じ、イエス・キリストをこの世に遣わされた神様の永遠の愛に繋がって生き・死ぬ人間に変えられるという儀式である。しかし、その人が、どれくらい善行なり功徳なりを積んだか? とか、聖書の基本は十分理解しているか? 等の「人間側の資格」は問わないのだ。何故なら、その人が洗礼の意味を信じ、洗礼を受けたいと願うようになったのは、まさに神様が、その人を言わば一方的に選び・愛し、ただただ神さまの「恩寵」としてその人を救いに導こうとされたが故であると信じるからである。

(2)そして、日本仏教のような高価な対価の必要な「戒名」取得などと異なり、洗礼を受ける「料金」は一切ない。中世のカトリック教会は免罪符なるものを販売していたが、それは「全く間違い」として、もう乗り越えられて久しい。神さまの愛は、お金で買えないからである。

(3)しかも、私はこの洗礼こそが、キリスト教の最大の「武器」でもあると思う。他の宗教で、普通の人が誰でも、一つの儀式により、「これまでの自分」が「神と繋がって生きる新しい自分」に生まれ変わったことになるという世界宗教はないと思う。仏教はそもそも出家宗教であるが、日本仏教のように在家を重視したものでも、例えば浄土宗では「南無阿弥陀佛」と日常唱えることで救われるとは教えるが、南無阿弥陀仏と唱えた1000回目に、お寺から「救いの認定式」等をしてもらえる訳ではない。ある瞬間で画期的に生まれ変わるとか成仏が保証されるといった儀式はないのだ。イスラムの場合、他宗教からの転向では、信仰告白儀式があるが、もともとイスラムの地域では、洗礼的な「画期的儀式」を経ないで、そのまま大人になり、区切りないままイスラム教徒になる。

● 以上のことから、重い病気の病床にある人が、死に向かって、もう時間もない中で、神様に繋がったと確信の出来る「明確な儀式」は、キリスト教の洗礼のみではないかと思う。これは、キリスト教関係者がもっともっと自覚していいことであろう。   Nat