★教会では、クリスマスを待つアドベントと言われる時期。そして、この時期に、教会で良く読まれる聖書の箇所が、旧約聖書のイザヤ書からの「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。」である。

● イザヤがこの予言的な文を書いたのは紀元前8世紀であるが、それから800年後のイスラエルにて、実際、マリアが処女のまま男の子を産んだと新約聖書が報告している。イザヤが800年前に見た幻は、処女が神の力により男の子を懐妊して生む、その子は「インマヌエル」=「神が我々と共にい給う」と呼ばれるということであった。それが800年後にそのまま起こったことになる。それがイエス・キリストの誕生である。
● イエスは馬小屋の冷たい石の桶の中で、わびしい生まれ方をした。そして、世の最下層にある者と共に生き、最後には世の中の最も見捨てられた人=死刑囚にされて十字架で死んだ。生まれてから死ぬまで、最も低く・弱い人の姿になり、我々と共に居てくださる存在であった。それが復活し、いつまでも、我々と低い所で一緒に居てくださる、我々の「身近な神」となった。というのが、いわば、聖書のメッセージ・信仰の全てであろう。
少し前に、川崎で路上生活を余儀なくしている人が、教会で洗礼(イエス・キリストに繋がって生きる人生になる儀式)を受ける決断をした時の話を聞いた。彼が冬の冷たい地面に寝ている時こそ、イエスキリストがまさに彼の傍におられることが一番分かる時だと言うのだ。そのことを聞き、私はまさに衝撃的な感動を覚えた。 イエス・キリストは、今でも、冷たい所、最も低い所に追いやられている人と共におられるのである。
● 前からキリスト教と仏教などの比較のコメントをここに書いてきた。仏教で最もポピュラーな「神」は観音様であろう。しかし、観音様はその名を唱えると「霊験あらたか」で病気等も治るという信仰なのだが、観音様が人の姿になり、冷たい所、悲しい所でこそ我々に寄り添って下さっているというような話はないと思う。一方、キリスト教の教会が伝えようとしている「神」は、冷たい所、悲しい所でこそ我々に寄り添う神=イエス・キリストなのである。
● 私は、このことを、今度の日曜の聖書のお話しで、幼児とその父母に伝えようと思っている。幼児にまでちゃんと伝わればと願う次第だ。 Nat