★ 私の教会のジュニア・チャーチ(子どもやお父さん・お母さん等が中心の教会)における、8月の聖書のテーマは、「イエス様の奇跡」だ。イエス様が起こした奇跡的な業を聖書から辿っている。例えば、ヨハネによる福音書に書かれている話で、5000人以上の貧しい人たちが、イエスを慕って、人里離れた山でイエスのところに寄ってきた時、夕方になり、皆、おなかが減ってきた。しかし皆を食べさせるパン等が全くない。弟子たちも、皆も困り果ててしまっていたところ、そこには5つのパンと2匹の魚しかなかったのを、イエスが神さまの力による奇跡で、それを5000人皆に行き渡るようにしたという奇跡物語がある。
・実際に、イエスがマジックのように、どう奇跡を起こしたのか、起こしてないのか、今では確証のしようがないが、この話は、新約聖書の4つの福音書(イエス伝)のどれもが書いていることだ。今では実際には何が起こったか分からないが、5000人の人たちが、イエスによって、おなかも心も満たされた、不思議だが「忘れられない体験」をした。そのことを「あの時は、すごかったんだよね!」として語り伝えたのが、いきおい、それぞれの福音書に記載されることになったものだろう。
・現代の人からすると、イエスのような教祖様にありがちな「神話」的脚色物語だろうという理解もあろう。しかし、ヨハネによる福音書の最後に書かれている通り、これらのイエスの信じられないような業(わざ)の話は、それによって、当時の人が心からイエスを神の子・救い主と信じたということ、そしてその心から信じたという事実を、後世の人に伝えたい一心で書いたということだ。
・そこで、2000年の後の現代、科学も発達した現代にあって、こういうことを伝え聞いた私たちは、それにどう反応するのがいいのだろうか。 もし神さまを信じ切って、神さまに祈って生きると、神様はそういう人間の人生の歩み・運命に何か働きかけてくれるのであろうか?
・旧約聖書の出エジプト記には、エジプトから脱出したモーセたちユダヤ民族が追手のエジプト軍により海辺に追い詰められて、絶体絶命になった時、神は海を割ってユダヤ民族の逃げる道を切り開いてくださったとある。冒頭に書いたイエスの5000人へのパンと魚も、困り果てた人々に対して、神は想像もつかぬ方法で救いの手を差し伸べてくれたものだ。このように、本当に困り果てた人々が神に祈る時、神はそれにどう応えるのか? 奇跡的な力をもってでも、応えてくれるのか? これが、少しでも「神」のことを思ったことがある人類が、太古の昔からずっとずっと抱えてきた設問だろう。そして、それは私自身が約70年間の人生で、ずっと考え続けてきた設問でもある。 人は人生の中で、例えば厄介な病気になり困り果てる、あるいは、大学受験に全部落ちて困り果てるといった「苦境」に遭遇することがある。その時に、神に「助けてください」と、心から信じて祈ると、神は何をしてくれるのだろう?という設問だ。
・この設問への応答の型としては、私がこれまで出会った様々な人の思いを以下のとおりの型に分類できると思う。
【型1】 神の人間への関与はない:
「神などいない」。あるいは「もし神がいたとしても、宇宙の精神のようなものであって、個々人の人生の具体的な苦境に働きかけたり等はしない。人は人の力で生きていくしかない。」・・・日本人の多くはこれである。そういう人でも「死んだおばあちゃんが助けてくれたに違いない」みたいな形で、「祖先の霊」を一種の「神」的なものとして想定する文化的背景はあるから面白い。
【型2】 人が苦境にある時、神は共にいたもう:
特に人が苦境にあり、神に叫び声をあげる時、神はそういう人に寄り添ってくださる、共にいてくださる、という信仰はあり得る。そして、日本の多くのクリスチャンはこの感じの思いをもっている。しかし、そういう人でも、神が、人の置かれた具体的な苦境、例えば厄介な病気状態、あるいは受験全滅状態を具体的に克服してくれる、つまり、その人の置かれた外部環境的な苦境からその人を救い出すことまでしてくれるかは分からない。あるいは具体的苦境そのものを奇跡的に解消してくれるかと言われると、そこまでは行かないかも知れない。それでも、神は共にいたもうのだという信仰を抱くということだ。その結果、その人はどうなるか?ということで、ここから更に2つに分かれる。
(型2-A) 神さまが共にいて下さることで、苦境にあっても、多いに慰めになる。神さま(あるいは目には見えないがイエス様)が一緒にいて、苦しさを一緒に背負ってくださっている。その分、おおいに気が楽になる。・・・という、表現は悪いが「大いなる気休め」信仰。これが(型2-A)。
(型2-B) 「いやいや、気休め以上だ。神は共にいたもうことで、我々に力を与えてくれる。それにより、我々が苦境を乗り越えることも出来るようにされるのだ。」という風に、神は直接苦境の除去まではしなくても、人の心を内的に強め、内的に強まった人が、外的な苦境環境は同じでも、それにより良く挑戦していけるようにされるという信仰。これもあり得る。
【型3】
神は、必死に祈る人の置かれた苦境そのものに働きかけ、道を切り開き、苦境そのものを変えてくださる:
モーセたちが追い詰められた時、海を割った神、空腹の5000人にイエスがパンを配れるようにした神は、困り果て、神に依り頼み強く祈る人の置かれた苦境、そのものに働きかけ、人の思いを越えた形で道を備え、苦境そのものを取り払ってくださるという信仰があり得る。
しかし、神が具体的に何時、どういう形で働きかけてくださっているのか? 神の働きかけのない場合に比べて、神のみ業はどこにどうなされているのか? ということは、人間には永遠に分からないということでもある。神が実際に何時どう働きかけて下さっているか、皆目分からない。しかし、神は、必要であれば海をも割る大いなる み力をもって、我々の歩む道を切り開き、備え、変えていってくださるのだと信じ切って生きる。その分、いつも祈り、いつも感謝する。これが「型3」である。 「型2」のように、神は苦境にある私たちと一緒に泣いてくださっているだけではない、苦境そのものを変え、新しい道を備えようとしてくださるのだと信じて生きるものだ。
【型4】 神は、人間が具体的に祈りで依頼する内容を受けとめ、それを実現してくれる:
米国に多いChristian Scienceの人がこれに近いが、人が強く祈る時、その祈りの具体的内容、たとえば「私の肝臓の癌を取り除いてください」という祈りに実際に神は応えてくださり、肝臓の癌が消えていくという信仰が、この「型4」である。
これらの、どの型が正解か? そんなことは人間には分からない。それぞれの人の人生の選択であろう。 ただ、日本でも比較的インテリのクリスチャンであればあるほど、「型2」が多いと思う。遠藤周作はこれに近い。しかも彼は、どちらかいうと「2-A」に近いだろう。
これに対して、私は、長い間、まず、「型1」、「型2」の間を揺れ動いたが、今たどり着いた信仰は「型3」である。モーセ達がエジプト軍によって海辺に追い詰められた時、誰もが、神が海を割ってモーセたちの進む道を備えて下さる等とは思いもよらず、ただただ、神に悲鳴を上げただけである。このように、もう神にしか頼ることの出来ない弱い人間が叫ぶ時、神は人の思いを越えてでも、み力を発揮し、必要なら、奇跡を起こしてでも、人の進む道を創りたもうのである。 具体的に何時、いかなる
み力が働いているかは、分からない。それでもそれを信じる。「おめでたい信仰」と言われかもしれない。結構だ、私はそういう「おめでたい信仰」を貫いて生き、死んでいきたい。それこそが、イエスの様々な奇跡のわざを書いたヨハネによる福音書が最後に書いていることだ。これらの奇跡の報告は、あなたがイエスを主と信じて生きる人となるためであると。
皆さんはどうでしょう? Nat
神は、人が祈る祈らないの次元を越えて、人を含めたすべての存在を救う、でいいのではないでしょうか。
人は、最善を尽くして現状の改善に努力するだけで、その結果には神の救いも含まれているとして受け入れるということです。