今週、日本は8月15日「終戦の日」を迎えた。世の中には、この日を敢えて「敗戦の日」というべきではないかとのご意見もある。
◎「敗戦の日」というべきというご意見の趣旨
・ 世の中で8月15日のことを何と呼ぶか? 休日ではないので、休日としての正式呼称はないが、1982年4月13日の閣議決定で8月15日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」とすることが決っており、政府としての正式な呼称はこれであろう。 しかし、マスコミを含めて8月15日のことは「終戦の日」と呼ぶことが多い。
・ これに対して、むしろ「敗戦の日」というべきというご意見があるとすると、それはあの戦争(日中戦争、太平洋戦争)では日本軍が中国・アジアへの侵略戦争を仕掛け、結局、太平洋戦争で米英ら連合軍と戦い敗れた。その戦争責任への反省に立つ場合、単に「終わった」ではなく「敗けた」「敗戦」と呼び、より反省の念を強めたいというご趣旨であろうと推察する。
◎ 戦争における「勝ち・負け」と「戦争責任」
・ では、人類の歴史の中で戦争の勝ち負けと戦争責任はどういう関係であったのかを振り返ってみよう。
・ 第二次世界大戦以前の世界における国際法の考えでは、戦争の責任については、勝った方も負けた方も「どっちもどっち」とし、負けた方にばかり戦争責任を押し付けたり、負けた国を「罪」と定める考え方は一切なかった。しかし負けた国は賠償責任を負う、つまり戦った国にお金を払ってケリをつけて終わりにしたのだ。(一方、どちらの国の側でも、個々の軍人が「国際法上のルール違反の行為」をしていた場合は、その個人が戦犯として裁かれることはあった。)
・ しかし、第一次大戦の際のドイツへの過酷な賠償責任が、結局、第二次世界大戦に繋がったとの反省から、第二次大戦後は、賠償責任が過大とならないようにする見返りに、東京裁判とニュールンベルグ裁判で、実質、敗戦国家の戦争責任を問う方式を連合国が考案した。即ち、日本の中国・アジアへの侵略行為を「侵略の罪」(A級戦争犯罪)、ドイツ・ナチスのホロコーストを「人道的」(C級戦争犯罪)とする国際法規を事後的に作り出し、それで日本軍、ナチス軍の幹部個人を戦犯と定め処刑することでケリを付け、その分、重い国家賠償を課すことを避けたのである。戦後、日本は米英等戦勝国に一円も賠償金を払っていないが、それはA級戦犯処刑との引き換えであったのだ。(注:「迷惑をかけた」相手国という意味で、ビルマやフィリピンには賠償金を支払っているが、米英等には払ってない。)
・ しかし、東京裁判とニュールンベルグ裁判に基づく、実質的に日本とドイツという敗戦国を「罪」と定める人類史上初の処置は、「戦勝国による敗戦国への一方的な断罪」であるとの見方を生み、それが故に、日本の8月15日の出来事を「敗戦」というと、それが同時に、米英が一方的に行った東京裁判による「戦争責任」(実質国家の責任、形式は軍幹部個人責任)と併せて認識され、東京裁判に憤りを感じる人からすると「敗戦」と言う呼び方そのものにも複雑な思いを抱くことになるのである。
◎ 日本の敗戦をどう呼ぶか?
・ さて、8月15日の日本はポツダム宣言を受諾し降伏したので、国際法上、日本が「敗戦」したことは全くその通りである。
・ そこで、8月15日を「敗戦の日」と呼ぼうとすると、上記の通り、東京裁判史観の「敗戦=一方的戦争責任」への憤りを感じる層からすると、「敗戦」という語感への複雑な思いから、それを嫌い「終戦」と呼ぼうということになる。
・ しかし、東京裁判史観の肩を持つかどうかは別にして、日本の戦争責任について反省をもって問いたい層からすると、逆に「終戦」ではなく敢えて「敗戦」と言おうということになる。斯くして、この二つの層はぶつかるのである。
・ ここから私の思いに入っていく。
(1) 8月15日を「敗戦の日」と言いたい人は、戦争への反省からそう言われるのであろう。しかし、そういう方に敢えてお聞きしたい。日本は敗戦し、その戦争責任を問いたいので「敗戦の日」という場合、「敗け」があれば「勝ち」もある。とすると、8月15日の出来事のことは、米英にとっては「勝ち」と言うことでいいのか?日本が負けて、あの戦争の責任、罪を全て負うのなら、米英は勝ってあの戦争で一切、責任、罪はないのか?
米国のルーズベルト大統領が、欧州で始まっていた大戦に米国も何とか参戦する口実を求めて、ABCD包囲網、ハルノートで日本を追い詰め、その結果、日本が真珠湾急襲した際に躍り上がって「これで米国も参戦できる」と喜んだとされることをどう理解するのか。終戦間際で言うと、既に米ソの戦後の世界分割を掛けて、ソ連の対日参戦の日までに、何としても広島・長崎に原爆を落とし、対ソ連の強烈な示威行動としたかった、そしてそれを実行、その日だけでも広島・長崎の計20万人以上の市民を虐殺した。その結果、日本からソ連をシャットアウト、日本は米国が100%支配できた。このトルーマン大統領の米国の行為は完全に米国の覇権主義であり、また広島・長崎(あるいはその前の日本本土空襲)は戦争犯罪ではないのか。日本が「負け」「罪」なら、そういう米国でも「勝ち」「無罪」というのか?そういう問題が出てくると思う。
(2) 戦争の勝ち・負けは、所詮、人間の世界での判定である。そして、戦争責任、戦争の罪も、人間の世界での人間による判定である。8月15日の出来事を、人間レベルの勝ち・負け、人間レベルの戦争責任、戦争の罪で論じる限り、負けの反対は勝ちであり、どちらかに戦争責任があるなら、他方には責任がないことになる。そして、人間による判定である限り、双方からそれに憤り反発する声が永遠にやまないのだ。
(3) 戦争は、人類の神への罪である。人間レベルの判定で、どちらがより罪深いか罪が軽いかを幾ら議論しても、双方の人間が、神さまの創られた多くの尊い人命を奪い合ったことには変わりない。だから、戦争は、勝ち負けに関係なく、また、どちらが戦争を始めた責任があるかに関係なく、全ての関与した人類が神に対して赦しを乞うべき「人類全体の神への罪」である。私はそう考える。・・・・但し、言っておくが、私は日本人なので、日本軍が韓国・中国・アジア各国でやってきた恐ろしい虐殺行為については、同じ日本人として心から詫びたい気持ちを持っている。上記の通り、米国のルーズベルトもトルーマンも可成りの「悪」だと思うが、日本軍の「悪」については実に心が痛む。しかし私にとって、これらはみな究極的には「人類の神への罪」なのである。
(4) 従って、私の思いとしては、8月15日は、人類が神に対して犯し続けてきた罪としての戦争行為を、神のみ力により、漸く人類が終了出来た日なのである。二度と戦争を始めない決意を込めて、「戦争は終わった」と宣言しつつ、戦争を終わらせてくださった神に祈るものでありたい。だから、この日に人間レベルの概念である「敗戦」というのは、私の信仰からはあり得ない。そこにどんな反省を込めていても、「敗戦」は人間レベルの概念でしかないからだ。・・・・最後に一言。極右の人が8月15日のことをどう言っているか? 彼らは「終戦」と言わない。「敗戦」と言う。なぜなら彼らは「前回は負けて悔しかった。今度こそ負けないようにしたい!」だからである。私は、日本人も米英人・ロシア人も中国・アジア人も皆で、あの戦争で神に対する罪を犯したことを神に共に懺悔し、共に赦しを祈りつつ、「戦争は終わった。二度と始めないようにしよう」と言い続けたいのである。
だから私は、もう人間レベルの「勝った」「負けた」ではなく、「終戦」と言い続けたい。二度と戦争を始めないために「戦争は終わった」というのである。 Nat