♪♪ NATの独り言 (心・ジャズ)

生きていく上で信じてること。大好きなジャズのこと等

信じて生きている事

旧約聖書シリーズ(2):サムソンの話

 旧約聖書のお話しシリーズ、その2。

 旧約聖書に「士師記」という、古代イスラエルがまだ王国として王の支配になる前の時代を治めたリーダー“士師”(しし)の物語がある。その士師の中でも一番有名な一人が怪力男サムソンだろう。旅行カバンのブランドである「サムソナイト」の語源にもなっているのが、サムソンだ。

 まずサムソンは、長らく不妊であったお母さんに神のみ使いが臨み、神のみ心により特別な人間として生まれた。彼には最初から神の働きかけがあったことになる。神がサムソンに与えた特別な役割は、髪の毛を一切剃らないで清らかな生活をする限り、彼に神からの特別な力を与え、その当時イスラエル民族を抑圧していたペリシテ人からイスラエル民族と解き放つ先駆者にするというものだ。

 大人の男になったサムソンは、神からの力で人間離れした怪力男になる。そして、イスラエル民族をペリシテ人から解き放つ先駆的な彼の役割が始まるのだが、彼はそういう崇高な役割を全く意識していないところが、この物語のミソである。何と、サムソンは敵であるペリシテ人の女に恋をし、両親の反対を押し切り、女のところに迎えにいく。途中で襲いかかろうとしたライオンがいたが、神が激しくサムソンに霊の力を注いだので、彼はライオンを手で引き裂いてしまう。ペリシテ人のところで、女を娶る宴会。そこで彼が出した謎かけクイズがきっかけになって、わやくちゃになり、彼はペリシテ人を30人打ち殺すことになるが、それも神が彼に力を与えたものであった。しかし彼は人間の思いとして、ペリシテ人を憎み殺しただけであった。結局、そのペリシテの女とは結ばれなかったのだが、その後もリベンジでサムソンはペリシテ人の畑を燃やしたりもする。

 かくなる暴れ者サムソンを、結局、イスラエル民族は、捕らえてペリシテ人に引き渡すのだが、そこでも神が激しく彼に霊の力を注ぎ、彼は1000人のペリシテ人を殴り殺す。こうやって、神は、本来は清らかな人になるはずだったが、暴れ者・ならず者・女好きになってしまったサムソンをも用いて、イスラエル人の解放の手を打つのである。そうやって20年の間、彼はイスラエルを率いた。

 その後、彼はペリシテの町であるガザで遊女のもとに行く。ペリシテ人が彼を捕えようとするが、町の門とその柱を抜いて山にまで運び、悠々と帰る。

 次に彼はデリラという女に惚れる。明確には書いてないが恐らくペリシテ系の女であろう。ペリシテ人はデリラを買収し、サムソンの力の秘密を探る。サムソンはデリラに、髪を剃らないことが怪力の秘訣であることを教えてしまい、膝枕で寝ているサムソンは髪の毛を剃られてしまう。かくして怪力喪失である。

 ペリシテ人に力なく捕らえられ、目をえぐられ牢屋に入れられたサムソン。最後にはペリシテ人の大きな建物の中で、さらしものにされた。力を失ったサムソンに、もう役割を終えたかのように、特に神は何も働きかけされなかったのだ。しかし既に髪の毛は再び伸びてきていて、そこに神の最後の働きかけの伏線がある。若い頃は、彼の狼藉の限りを神が一方的に用いて、彼に激しい霊の力を与えてきた神であるが、サムソンは、それを一切神の力などとは思わず、自分自身の怪力と思って、思う存分、ペリシテ人を殺しまくってきた。結果的にイスラエルは解放に向かった。ところが、今や力を失い、目も失い、何もかも失ってしまったサムソンである。しかしその時にこそ、彼は生まれて初めて、本気で神に祈ったのである。「神よ、今一度だけ私を思い起してください。神よ、今一度だけ私に力を与えてください。」と。神は祈りに応え給うた。神から与えられた最後の力を振り絞ったサムソンは、ペリシテ人のその巨大な建物の柱を手で押す。建物は崩壊し、サムソンも死ぬが、サムソンが元気な頃に殺したペリシテ人よりもはるかに多数のペリシテ人がそれで死んだ。というのが、聖書のサムソンの話、あるいは「サムソンとデリラ」という映画にもなった話だ。

 私は、この話から、今度の日曜に、教会の幼児とその父母のグループでお話しする。まだ話し方は考えている最中だ。

 この話を読むと、前回書いたモーセの為に神が海を割られた話では、海を割る奇跡の余りにも嘘っぽい神話のような話の内容に意識が行きがちであるが、サムソンの話では、神の霊の力もさることながら、それにより、ペリシテ人(今のパレスチナという地名につながる)が多数殺害されるという、おどろしさにも意識が行きがちである。

 しかし、この聖書の話が真に我々に語りかけるメッセージは何か? それは、神は、狼藉者のサムソン、女好きのサムソンをさえ用いて、神の霊の力を注ぎ、神の御業を実現されるのだということが一番目のメッセージ。私たちも、神の御業に全くふさわしくない者であろうが、そういう私たちをこそ、選んで神は用い給うというのだ。

 そして、サムソンは力に満ちている時は、神の力に気づかず、やりたい放題をする。しかし神はそのようなサムソンの思いをはるかに越えて、サムソンを用いる。そして、サムソンが力を失い、視力も、愛する者も、全て失い、さらしものになったその極限の状況で、神はサムソンの心を遂に真に神に向けさせるのである。サムソンから、生まれて初めて出た、ほとり走るような神にすがる祈り。「これまでのは、全て貴方の力だったのですね。私はそれに気づきませんでした。何と罪深い存在であったのでしょう。神よ、そういう私を憐れみ、赦し、あと一回だけ、あと一回だけ、死ぬ前に、あの、あなたの力を私に戻して下さい。」と涙ながらに祈ったのである。その時にこそ、元気な時のサムソンに対する以上の力を神は注ぎ、神は祈りに大きく応えられたのである。元気な時はハチャメチャな人生。神の力には気づかない。全てを失い死ぬ直前に、サムソンは、神と人との本来の関係に立ち返ったのである。これがこの話の第二のメッセージというか、聖書の最大のメッセージである。神は人を、必ずしも「正しい人、善なる人」にされようとはしていない。ハチャメチャな狼藉者、女好きのサムソンをも愛して縦横無尽に神の為に用い、そして最後に、みじめに完全無力になった時にこそ、本当に神に立ち返るサムソンになるように導いて下さったのだ。サムソンが人生で最高に神とのつながりを感じ、神に感謝したのは、この建物を壊して自分も死ぬ瞬間であった筈だ。神と人との関係は、そういうものなのだ。「神とは疎遠でも良き人間」よりも、「神に憐れみを乞わざるを得ぬ人間」が、神に身を委ね、神を信じ切って生きる。我々もそういう神との関係に招かれている。

 というのが、この聖書からの、我々への最大のメッセージであろう。・・・・あとは、これを幼児にも伝わる言葉にするだけだ。それも神さまがそうさせて下さるだろう。感謝。アーメン。    Nat

 

 

 

 

「海を割る神」

 先般、私の教会の「ぶどうの木グループ」という、まだ教会に馴染みの少ない大人も入りやすい、日曜9時からの礼拝で、私が「聖書からのメッセージ」(お話し)の当番だった。聖書の箇所は、旧約聖書の出エジプト記14章、有名な、モーセらの出エジプト逃避行に際し、神が海を割って道を作ったという奇跡物語の所だった。私のメッセージの要旨を記載させて頂く。  Nat
 

『 海を割る神: 今日の聖書の箇所は、エジプトで奴隷状態になっていたイスラエル民族が、神さまがモーセをリーダーとして選び、エジプトから脱出できるようにされたという物語。特に今日読んだところの、神が海を割って道を作ったという奇跡の部分は余りにも有名。そして、ここの所は、大昔から、逃避行のルートはどこか?とか、割れた海の場所は?とか、喧々諤々議論されてきた。また、海が割れた奇跡も浅い水の所で風が吹き水が偏ったのでは、とか様々な解釈がされてきた。しかし、そういう議論はもっぱら我々の知的好奇心向けのものである。エジプトから脱出したイスラエルの民が、この聖書の部分を書いて、子孫に、あるいは後の世の我々に、どうしても伝えたかったことは何か? それは、彼らの信じた「神と人の関係」なのである。

 神は、海を割る「奇跡」の前から、それぞれの時点でその都度、イスラエルの人たちに先回りして働きかけ、係わって来られている。出発の日に、神は「今だ」と民に働きかけた。民は従った。そして通常エジプトからイスラエル地方に行くのに通るペリシテ街道は、途中で種々戦いが必要なので、神は民を敢えて荒野の道へ誘導された。民は不安に思ったであろうが従った。荒野を進んでいくと、今度は突然神は、引き返して荒野と海に挟まれた海辺に陣取りなさいと言う。そんなことすると、追手のエジプト軍に海辺にまで追い詰められ、皆、海に追いやられて死んでしまうではないか?というと、神は、その時こそ、自分が海を割って道を作ると言われる。果たして神の言われた通りになった。そして民は海の道を逃れ、エジプト軍は海に飲み込まれるという結末である。

 この話を書いた人たちが後の世に言いたかったことは、いかに神がいつも具体的に圧倒的な力で、彼らに係わり、彼らの道を切り開いて下さったか、そして、いかに彼らはそういう神を信じ、身を委ねたということだ。

 人間にとって、神というと、遠く宇宙の彼方で「宇宙の心」として我々人間を見つめている存在と思う人もいる。あるいは、神は、いちいち我々の道筋に手を加えて介入まではしないまでも、我々のそばに寄り添ってくれていると思い、慰めを得る人もいよう。あるいは、そんな神では満足できない人は、むしろ、アラジンのランプの魔法使いのように、願いごとを次々適えてくれる「御利益神」を期待するかも知れない。しかし、これらは、全て、まず我々人間がいて、人間の観点から色々神を想定しているに過ぎない。これに対して、出エジプト記を書いた人たちは、「まず神がおられて、それで人がいる。神は、人間の思いも理解も遥かに超えて、いつも思いがけないような道筋を示し、道筋を途中で大きく変え、必要ならば、圧倒的な力で海を分けてでも道を切り開いてくださる、それが神の人への係り方だ。私たちは、唯々、そのような神を信じ、祈り、身を委ねて歩む、それが私たちの生き方だ。」と言っているのである。

 私たちクリスチャンも、時に、神って遠いところにいるだけ? 横に寄り添ってくれているだけ? アラジンのランプみたいに我々の願いをただちに叶えてくれないかしら?と思ったりもする。しかし、出エジプトの聖書は、「神は、そんなんじゃない。我々の思いを遥かに越えて、私たちを力強く導き、必要な時は奇跡すらも起こして道を切り開いてくださるのだ。」と、我々に語りかけている。

 私も、そういう信仰に近い形で真剣に祈ったことがある。まだ母が存命の頃、突然、心臓大動脈瘤が見つかり、しかも破裂寸前。病院に緊急入院、特別に翌日の夜に大手術。そうなると、どういう展開になるか全く分からない中で、出エジプトのモーセたちのように、もう、唯々、人間の思いも予想も越えて、この世の道筋を変える、時は海をも割る圧倒的な力でそうされる神に、ひたすらに祈り、委ねるしかなかった。
 そこで、手術の最中、私は待合室から抜け出して、外庭の茂みの中にうずくまって、1時間以上祈り続けた。出エジプトの民を導いた神、人間の思いを越えて人間の道筋に介入する神に祈ったのだ。祈りを終えて戻ると、母は手術から生きて帰還した。手術で胸を開けた時とほぼ同タイミングで瘤は破裂したよしで、まさに奇跡の手術タイミングだったそうだ。そして、後で知ったことが加わる。その夜は水曜夜で、教会では聖書研究祈祷会があり、教会の仲間が母のことで熱烈に祈ってくださっていたのだ。そのことを、後で知った。神は、動脈瘤破裂と同時の奇跡的な手術のタイミングを実現されたのに加えて、教会の仲間が「奇跡の友」となれるよう、水曜の夜を選んで下さったのだと思った。感動的な体験であった。

 今日のこの話を聞いているここにおられる皆さん。皆さんも、モーセ達が海辺に追い詰められたように、何か思い悩んだり、壁にぶち当たっているかも知れない。そこで、神さまというと、遠くにいるだけ? 寄り添ってくれているだけ? それより、アラジンのランプみたいな神がいてほしい、等と思うかも知れない。しかし、今日の聖書は、皆さんに語り掛けている: 「神はあなたの思いを超えて、思わぬ道を切り開き、必要なら海を割ってでも、あなたを導こうとされている。そしてそれに身を委ねるあなたに対し、神は“決してあなたを見捨てない”と言われている。」これが今日の聖書のみ言葉からの、あなたへのメッセージです。』       以上

なぜ、日本でキリスト教が流行らないのか?? - 続編 その(4)

 本年4月に、標記のテーマで、その(1)~(3)を、ここに書いた。(リンクは以下。)

http://iamnat.dreamlog.jp/archives/52036984.html

 要約して言うと、現代日本で圧倒的に信者を伸ばしている法華経系新宗教(創価学会、立正佼成会、顕正会、霊友会)が霊的なパワーにも踏み込みつつ、かつ日本の「家」に入り込んで教勢を増やしてきたのに対し、イ)戦後のキリスト教は知的に偏してしまったこと、ロ)「家」とは別個に日曜の教会という敷居の高いように感じられる活動を中心としつつ、結果的にはそこに閉じこもった嫌いがあること、ハ)そして、法華経系の「イメージ神様」である観音様と違い、歴史上の存在でもある実にリアルな「人間の神」であるイエス・キリストという最大のポイントを、現代人に効果的に活かしきれていないことが、前回までの私の意見だ。 

 この最後のハ)に関連。「なぜキリスト教が流行らないのか」の追記を、その(4)としてここに書かせて頂く。それは、他の人も言っていることだが、「罪の意識を一旦植え付けて、その上でそれを消す」ということを、必要以上にやろうとする点である。 

◍ キリスト教は、その母体であるユダヤ教の聖典でもある旧約聖書の最初にあるのだが、アダムとエバが禁断の木の実を食べてしまうという罪を犯したことが、この世での人間存在の原点であるという、いわゆる「原罪」論に基づいている。つまり、人間は生まれてきた時から、そのままでは、神を裏切り、神から離れて自分勝手に生きようとしてしまい兼ねない罪深い存在だが、だからこそ、そこに救いの手を差し伸べてくださる神の愛に目覚め、新しく生まれ変わって生きる人生に導かれましょうという話だ。しかし、ルース・ベネディクトの主張のように、欧米人は、「神の前にはみな罪人」と思える伝統があるかも知れないが、日本人は「人に悪く思われる」ことを嫌う「恥の文化」であり、そもそも「他人の目から」ではない「神の目から見た罪」という概念がない。むしろ、本来ピュアな我々のたましいが、悪霊・死霊で、外から「穢れる」のを嫌い、神社等で浄めを求めることはあっても、最初から自分が「穢れている」等という発想はあり得ないのだ。 

◍ 従って、そこに無理に、「あなたも罪びと」と説いて見ても、はなから違和感があるのみで、次の話に進む前に立ち去られてしまうのである。しかも、無理に「罪人」であると教えても、その上で「しかし、そんな貴方も神の愛で許されます」というのでは、まるでマッチポンプみたいな印象すらする。 

◍ 私は、日本人に対しては、無理に「あなたは罪びと」と「教えよう」とし過ぎることはないと思っている。新約聖書も、ユダヤ教の原罪の流れを汲みながらも、全く新しい息吹が吹き込まれているのだ。生まれつき目の見えない人がいた。弟子たちがイエスに尋ねた。「この人が、生まれつき目が見えないのは、本人が罪を犯したからか、両親が罪を犯したからでしょうか?」と。イエスは驚くべき答えをしている。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」といって、その人の目を開けたのである。勿論、ユダヤの社会の中で、その目の見えない人は、生まれてからずっと「罰当たり者」と言われ続けてきたことの痛みをよくよくご存じのイエスだから、もはや、改めて「あなたは罪びと、でも今許される」とは言わなかったのだ。むしろ、その人のこれまでの辛い人生の重荷をそのまま受けとめ、「そのままの貴方が、今、神の奇跡の愛の業に与ろうとしているのだ!」と宣言されたのである。 

◍ 私は、ある意味で、日本文化の中の日本人に対しても、これでいいと思っている。皆、大なり小なり、自分が狭い心の持ち主であり、神に褒められる存在でないことは分かっている。しかし、そのような自分の「罪」を何とかして神に許されたいと思っている日本人は少ないだろう。それより、今の人生・生活の重荷、閉塞感等に苛まれているのである。それが自分の「罪」の罰かどうか分からないが、兎に角、何かにすがって生きたい思いはある。ここで、法華経系宗教の場合は観音様をお薦めするのだろうが、キリスト教会は、「イエス・キリストこそが、あなたの神さまとして、そのままのあなたを、そのままで受け入れ愛し、そして恵みの人生に導いて下さるのです」とシンプルに語り掛ければいいと思う。 何も、そこで「あなたはそもそも罪深い存在」という「原罪」を強調することはない。

◍ しかし、キリスト教は、原罪に加えてそれに関連するもう一つ難しい話がある。イエス・キリストは、我々の「罪」を代わりに背負い、犠牲となり十字架につき、我らの罪を贖い、そして復活により、罪の永遠の赦しを証ししたという、「十字架の贖罪」理解である。勿論、これは、その当時の初代クリスチャンが、伝統的なユダヤの「神への贖いの生贄」文化をベースに、結局はそういう風に理解するようになり、そう聖書に書いたことだから、それはそれで、信仰に生きる中では、共有すべき非常に重要な点ではある。しかし、私が教会で小さな子たちに話する時には、「イエスの贖罪の十字架」を語るよりも、聖書の福音書に書かれてあるとおりの「事実」で語ることのほうが多い。「イエスさまはあれだけ優しかったのに、皆に虐められて十字架で殺されました。だけど、神さまの力で復活されました。そんなイエス様こそ、皆の神さまなんですよ。」って。大人にも、殆ど、まずはこれでいいと思う。私たちの信仰は、とどのつまりは、「イエス・キリストこそは私の神さま。そのままの私を愛して、人生を共に歩んで下さる。」という点に尽きるのだから。 

 ということで、キリスト教が、無理に教条主義的に、日本人に「原罪」を押し付け、「キリストの十字架の贖罪神学」を説き、それを信じて喜びましょうという時、むしろ聞く人を遠ざけてしまい兼ねないのである。私は「イエスは私の罪の為に十字架について下さった」とちゃんと信じているし、キリストを信じて生きようかと思って下さる方には、そのことも伝えたい。しかし、そのことを最初から一方的に教条的に押し付けるのではなく、先ずは、もっとシンプルに「信じて生きる喜び」を語ることから始めたいと思う次第なのである。  Nat

「バベルの塔」のお話

 本日(625日)、教会のジュニア・チャーチ(9時からで、子どもたちや、まだ教会に不慣れな大人たち中心の教会)の礼拝で、旧約聖書の「バベルの塔」の箇所(創世記11:1-9)のお話をする役目があった。以下はその要旨である。 

『 最初の頃の人類はまだ少人数の村落で分散して暮らしていた。ところが、シンアルの地(今のイラク・メソポタミア地方)に東から移住してきた人たちは、その肥沃な平野に着眼、そこに都市国家を建設しようとした。そして彼らはレンガを焼く技術、アスファルトを作る技術を持っていたので、それを利用して、都市の中に天に届きそうな塔を建設、それで多くの人を惹きつけて大都市を作ろうとした。これを見た神は、このまま放置すると人間のすることへの制御が効かなくなるとして、それまでは一つの共通言語であった人間の言語を乱され、都市を建設中の人々が互いにコミュニケーションできなくされた。そこで、人々は建設を放棄し散って行った。 

以上が聖書に書かれた「バベルの塔」の物語である。この箇所から、礼拝でお話をするのは、私としては初めてであったので、良く良く読んで考えた。すると、なぜ神が人々の建設を止められたのか? 疑問が湧いてきた。人類が分散した村落から、農耕文化で定住し始め都市国家を形成してきたのは、文明の自然な流れである。なのに、神はそれを良くないとして阻止されたのか? この疑問に対し、昔からよく言われることは「都市国家そのものは悪くなくても、天に届くような塔を作ったのがいけなかった。神への挑戦である。だから神は怒り、塔を破壊した」という解釈だ。しかし、聖書には、神が塔に怒ったとも、塔を破壊したとも書いていない。 

そこで聖書を読み返すと、ある事が浮かび上がってきた。塔を作る人の会話だが、「さあ天にまで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう。」といっている。この会話には「神」への思いは出てこない。もし、この人たちが神を信じて生きる人たちであったなら、まず、シンアルの肥沃な平野に定住出来たことを神に感謝したであろう。そして、そこなら大勢の人たちの住める素晴らしい都市が作れると思うなら、その都市建設のことを神に祝福して下さるように祈り、また、レンガやアスファルトの技術を備えて下さった神に感謝しつつ、建築する塔についても神が祝福して下さることを祈ったであろう。しかし、実際にバベルの塔を作った人たちの心には「神」はいなかったのである。人間だけの思いで、人間同士だけでコミュニケーションし、塔を中心とした都市を作り、多くの人を惹きつけようとした。神が止めようとされたのは塔ではない。止めようとされたのは、神を一切思わぬ人の心であり、そういう心に基づく人間のコミュニケーションだったのだ。 

ここで私の人生を振り返ると、若いころに洗礼を受けた私だが、18歳で東京に出てきてから30歳くらいまでは実質的に教会には通わず、就職後は仕事一筋であった。バベルの塔を作ろうとした人と同じく、私の心に神は殆どいなかった。それから、ある時神により教会に引き戻されたのだが、そこからの時期は、週日は仕事人間、つまり心に余り神のいない人間。日曜には急に教会で神のことを思う、そういう別々の二人がいるかのような生き方になった。しかし、何時か気が付くと今の私になっていた。毎晩、仕事のことも神に祈る。「神よ、明日のあの難しい仕事を祝福してください。それがすべてあなたのみ心に適うよう導いてください」と。私は、その前の二人に分離していた私ではなく、ついには一人の一貫性のある人間に変えられて来た。そして人生を、(かっこ良く言うと)まるごと神にささげて生きる生き方に変えられ導かれてきたと思う。 

私たちのこの世の営みでは、それぞれが小さな「バベルの塔」を作りながら生きている。しかし聖書のバベルの塔の物語が私たちに本当に語りかけていることは、「私たちの作ろうとしているものが、どのようなバベルの塔であっても、毎日神に祝福を祈りながら作り上げていく時、それは結局は神さまのみ心に沿うものとされていくのだ」ということだろう。私たちは、そのようにして、神に「全てを祝福してください」と祈りながら、神に導かれ支えられて生きる、そのような恵みの人生に、誰でも招かれているのである。それを心から信じて生きるものとなりたい。』 

以上でした。     Nat

「創世記」の“弟殺し”カインの物語からの「三つの法則」

 旧約聖書の最初に「創世記」という書物があり、神がこの世や人間をどう創られたについて書いてある。その創世記に最初に登場する「人生物語」は、アダムの長男カインのものである。カインは世界で最初の殺人者、しかも「弟殺し」をしてしまう人だ。しかし実は、この弟殺しのカインの人生にこそ、神と全ての人間と間に共通する“基本法則”みたいなものが凝縮されていると思うのだ。(以下は、2017528日に、私が田園江田教会のジュニア・チャーチで、中高生たちが中心の礼拝で語った聖書の話である。) 

 最初の人、アダムとエバの間には、二人の男の子が生まれた。兄のカインは畑を耕し作物を育てる人になった。一方、弟のアベルは羊飼いだ。ある日、二人は神に捧げものをする。カインは農作物を、そしてアベルは羊を捧げた。カインにとっての最初の悲劇はここで起こる。神が弟アベルの捧げものにしか気を留められなかったからだ。兄カインは、これに憤ってアベルをひどくねたみ、結局はアベルを殺してしまう。

 しかし、聖書の読者はほぼ全員ここで疑問を抱く。なぜ、神は平等に両方の捧げものを評価しなかったのか?と。それこそ、まさにカインが抱いた強烈な憤りである。しかし、これが神と人との間の「第一の法則」である。人生の中で神のされる事には、ほぼ必ず「なぜ私がこんな目に?神さま、おかしいじゃないですか!?」ということがあるという法則だ。人は憤る。しかし、人には神のなされていることの全体像は見えていない。聖書のカイン物語では、そこまでは書かれていないが、もしかして弟アベルには何か深い悩みあり、必死に神に祈り、その上で泣きながら捧げものを差し出したのかも知れない。これに対し、兄カインは、特にそういう事情にはなく、形式的に捧げただけかも知れない。だから神の反応には理由があったかも知れないのだ。しかし、カインに代表される我々人間には、神の全体像が見えないばかりに、ただただ神に対して憤り、疑問に思うしかない出来事が世にはあるのだ。これが、私がこの話から感じる「第一法則」である。

「第二法則」は、カインのように人間の胸が張り裂けそうになる時にこそ、実は神と人との本当の関係、濃密な関係は、そこから始まるということである。しかも、その濃密な関係は、神の方から始められるというのが第二法則だ。捧げものへの神の「不公平」に憤ったカインに、神の方から語りかけている。「カイン。どうして私にそっぽを向くのか。おかしいと思えば私に言えばいいではないか。今のあなたの心の状態は危ない。罪を犯す一歩手前だよ。」と。しかし、カインは神に応えず、弟アベルを野原に呼び出し殺害してしまう。そこで神は更にカインに語り掛ける。「何ということをしたのか! 流されたアベルの血が私を呼んでいる」と。ここでカインは我に帰る。そして神にすがる。「取返しのつかない罪を犯してしまいました。これから世をさまようしかない私ですが、皆から“弟殺しのカイン”と言われ、殺されてしまうでしょう。私はどうしたらいいでしょうか。」と。ここに、初めて心から神にすがるカインの姿がある。第二の法則は、人が憤り、追い詰められた末には、初めて神との深い関係があり得るということだ。

 殺人までして初めて神にすがるカイン。神はそんな身勝手なカインを撥ね付けられるのだろうか。ここからが第三の法則だ。神はすがるカインを決して見捨てない。神は言われる。「あなたを殺す者は7倍の復讐を受けるようにしよう。それが分かり、誰もあなたに手を出さないように、あなたに印をつけよう」と。そして、恐らくカインの額にと思われるが、カインに大きな印をつけられたのである。神はカインを見捨てないばかりか、全面的にカインを守り、全面的にカインの生きる道を備え給うたのである。これが第三の法則だ。そして、カインは、それに守られ、長く生きたのである。

「なぜ、私にこんな?」ということは、誰にも起こる。そして、その時こそ、神さまがあなたにしっかりと語り掛け始める時だ。しかし、多くの人は、神の語り掛けに気が付かず、人間のドロドロした憤りの「蟻地獄」に深く落ち込んでいく。カインのように人殺しはしないまでも、更に深い不幸に進んで行ってしまうこともある。しかしそういう時でも、神さまは、あなたを見捨てない。あなたに働きかけ続け、あなたを愛し守ろうとして下さる。それがカインの物語が指し示した法則だと思う。これからの人生の中で、そういうことが起こった時、このことを少しでも思い出してほしい。あなたの人生の筋書きはそれだけでも変わってくるはずだと思う。私自身、この法則で、思いもかけぬ人生の筋書きに導かれてきているのだから。   (私のしたお話は、以上でした。)  Nat

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