旧約聖書のお話しシリーズ、その2。
旧約聖書に「士師記」という、古代イスラエルがまだ王国として王の支配になる前の時代を治めたリーダー“士師”(しし)の物語がある。その士師の中でも一番有名な一人が怪力男サムソンだろう。旅行カバンのブランドである「サムソナイト」の語源にもなっているのが、サムソンだ。
まずサムソンは、長らく不妊であったお母さんに神のみ使いが臨み、神のみ心により特別な人間として生まれた。彼には最初から神の働きかけがあったことになる。神がサムソンに与えた特別な役割は、髪の毛を一切剃らないで清らかな生活をする限り、彼に神からの特別な力を与え、その当時イスラエル民族を抑圧していたペリシテ人からイスラエル民族と解き放つ先駆者にするというものだ。
大人の男になったサムソンは、神からの力で人間離れした怪力男になる。そして、イスラエル民族をペリシテ人から解き放つ先駆的な彼の役割が始まるのだが、彼はそういう崇高な役割を全く意識していないところが、この物語のミソである。何と、サムソンは敵であるペリシテ人の女に恋をし、両親の反対を押し切り、女のところに迎えにいく。途中で襲いかかろうとしたライオンがいたが、神が激しくサムソンに霊の力を注いだので、彼はライオンを手で引き裂いてしまう。ペリシテ人のところで、女を娶る宴会。そこで彼が出した謎かけクイズがきっかけになって、わやくちゃになり、彼はペリシテ人を30人打ち殺すことになるが、それも神が彼に力を与えたものであった。しかし彼は人間の思いとして、ペリシテ人を憎み殺しただけであった。結局、そのペリシテの女とは結ばれなかったのだが、その後もリベンジでサムソンはペリシテ人の畑を燃やしたりもする。
かくなる暴れ者サムソンを、結局、イスラエル民族は、捕らえてペリシテ人に引き渡すのだが、そこでも神が激しく彼に霊の力を注ぎ、彼は1000人のペリシテ人を殴り殺す。こうやって、神は、本来は清らかな人になるはずだったが、暴れ者・ならず者・女好きになってしまったサムソンをも用いて、イスラエル人の解放の手を打つのである。そうやって20年の間、彼はイスラエルを率いた。
その後、彼はペリシテの町であるガザで遊女のもとに行く。ペリシテ人が彼を捕えようとするが、町の門とその柱を抜いて山にまで運び、悠々と帰る。
次に彼はデリラという女に惚れる。明確には書いてないが恐らくペリシテ系の女であろう。ペリシテ人はデリラを買収し、サムソンの力の秘密を探る。サムソンはデリラに、髪を剃らないことが怪力の秘訣であることを教えてしまい、膝枕で寝ているサムソンは髪の毛を剃られてしまう。かくして怪力喪失である。
ペリシテ人に力なく捕らえられ、目をえぐられ牢屋に入れられたサムソン。最後にはペリシテ人の大きな建物の中で、さらしものにされた。力を失ったサムソンに、もう役割を終えたかのように、特に神は何も働きかけされなかったのだ。しかし既に髪の毛は再び伸びてきていて、そこに神の最後の働きかけの伏線がある。若い頃は、彼の狼藉の限りを神が一方的に用いて、彼に激しい霊の力を与えてきた神であるが、サムソンは、それを一切神の力などとは思わず、自分自身の怪力と思って、思う存分、ペリシテ人を殺しまくってきた。結果的にイスラエルは解放に向かった。ところが、今や力を失い、目も失い、何もかも失ってしまったサムソンである。しかしその時にこそ、彼は生まれて初めて、本気で神に祈ったのである。「神よ、今一度だけ私を思い起してください。神よ、今一度だけ私に力を与えてください。」と。神は祈りに応え給うた。神から与えられた最後の力を振り絞ったサムソンは、ペリシテ人のその巨大な建物の柱を手で押す。建物は崩壊し、サムソンも死ぬが、サムソンが元気な頃に殺したペリシテ人よりもはるかに多数のペリシテ人がそれで死んだ。というのが、聖書のサムソンの話、あるいは「サムソンとデリラ」という映画にもなった話だ。
私は、この話から、今度の日曜に、教会の幼児とその父母のグループでお話しする。まだ話し方は考えている最中だ。
この話を読むと、前回書いたモーセの為に神が海を割られた話では、海を割る奇跡の余りにも嘘っぽい神話のような話の内容に意識が行きがちであるが、サムソンの話では、神の霊の力もさることながら、それにより、ペリシテ人(今のパレスチナという地名につながる)が多数殺害されるという、おどろしさにも意識が行きがちである。
しかし、この聖書の話が真に我々に語りかけるメッセージは何か? それは、神は、狼藉者のサムソン、女好きのサムソンをさえ用いて、神の霊の力を注ぎ、神の御業を実現されるのだということが一番目のメッセージ。私たちも、神の御業に全くふさわしくない者であろうが、そういう私たちをこそ、選んで神は用い給うというのだ。
そして、サムソンは力に満ちている時は、神の力に気づかず、やりたい放題をする。しかし神はそのようなサムソンの思いをはるかに越えて、サムソンを用いる。そして、サムソンが力を失い、視力も、愛する者も、全て失い、さらしものになったその極限の状況で、神はサムソンの心を遂に真に神に向けさせるのである。サムソンから、生まれて初めて出た、ほとり走るような神にすがる祈り。「これまでのは、全て貴方の力だったのですね。私はそれに気づきませんでした。何と罪深い存在であったのでしょう。神よ、そういう私を憐れみ、赦し、あと一回だけ、あと一回だけ、死ぬ前に、あの、あなたの力を私に戻して下さい。」と涙ながらに祈ったのである。その時にこそ、元気な時のサムソンに対する以上の力を神は注ぎ、神は祈りに大きく応えられたのである。元気な時はハチャメチャな人生。神の力には気づかない。全てを失い死ぬ直前に、サムソンは、神と人との本来の関係に立ち返ったのである。これがこの話の第二のメッセージというか、聖書の最大のメッセージである。神は人を、必ずしも「正しい人、善なる人」にされようとはしていない。ハチャメチャな狼藉者、女好きのサムソンをも愛して縦横無尽に神の為に用い、そして最後に、みじめに完全無力になった時にこそ、本当に神に立ち返るサムソンになるように導いて下さったのだ。サムソンが人生で最高に神とのつながりを感じ、神に感謝したのは、この建物を壊して自分も死ぬ瞬間であった筈だ。神と人との関係は、そういうものなのだ。「神とは疎遠でも良き人間」よりも、「神に憐れみを乞わざるを得ぬ人間」が、神に身を委ね、神を信じ切って生きる。我々もそういう神との関係に招かれている。
というのが、この聖書からの、我々への最大のメッセージであろう。・・・・あとは、これを幼児にも伝わる言葉にするだけだ。それも神さまがそうさせて下さるだろう。感謝。アーメン。 Nat