★ 8月15日、日本では「終戦の日」あるいは「終戦記念日」という。
・・・世界的には、もっぱら、第二次世界大戦の「終戦の日」は9月2日、日本政府がポツダム宣言の履行等を定めた降伏文書(休戦協定)に調印した日である。日本だけが、玉音放送でポツダム宣言受諾を国民に告げた8月15日をもって終戦記念日としている。
◆ そこで、元々8月15日は日本人の精神にとって「神国日本のあり得ない敗北・降伏の日」=「敗戦記念日」であり、「右」の人が「今度は敗けないようにしたい」という所以である。そして、当然、その裏返しで、9月2日(ないしは3日)は、戦勝国にとり「戦勝記念日」である。
・・・だから、8月15日は、本来日本民族にとりあり得ないほど屈辱の「敗戦記念日」であったのだが、日本はだんだんそれを卒業していく。1950年代に「終戦日」と呼ぶようになり、更に1982年閣議決定で「戦没者を追悼し平和を祈念する日」と呼ぶようになった。・・・元来は、玉音放送での神国日本の敗北に民族全体で嗚咽した日であったのが、終戦日、平和祈念日にまで “昇華” されてきたのである。
・・・しかし、私は、そのような人たちとは一線を画す考えである。もう「勝ち」とか「敗け」という思いは越えたい。むしろ、「戦争は始めるのは簡単だが、終えることは非常に困難」であるところ、人類は8月15日、あるいは9月2日に「WWII戦争の終結を成就した」、その「人類的な出来事」に深い思いを馳せたいのだ。だから、私は「終戦」という。
・・・そこにおける私の思いは以下だ。
【1】前述の通り、元々、神国日本の屈辱の敗戦の日であったのが、戦後、時間と共に、漸く「屈辱の敗戦の日」から、「終戦と平和祈念の日」に “昇華” されてきたのだ。にも拘わらず、「反省を忘れないように」という善意の趣旨からであろうと、ここで「敗戦」「敗戦」というのでは、案に相違して、「右」の人たちの「今度は敗けないぞ」論を再び刺激する懸念すらある。
・・・もう、「勝った」「敗けた」論は卒業するべき時だろう。
【2】次に、戦争は、その本質は「人類の神に対する罪」である。しかし、人間の世界では、勝った方が「正義」であり、敗けた方は「悪」とされる。
・WWIまでは、「国と国が時に戦争するのはしかたがないこと」とし、ルール違反の戦争犯罪行為をした軍人のみを国際司法で裁いた。且つ、敗けた国に賠償金(敗けた罰)を払わせてバランスを採ってきた。
・しかし、WWIIでは全く違う対処にしたのだ。日本とドイツ(ナチス)の戦争行為そのものを、それぞれ「侵略の罪」(A級)、「人道上の罪」(C級)とし、東京裁判、ニュールンベルグ裁判で戦争指導者をA級・C級の戦争犯罪指定して処刑、実質、日本国、ドイツ国を「戦争犯罪国家」と定める方式にしたのである。
・更に日本の場合で言うと、中国戦争・太平洋戦争に関する東京裁判で、日本は「侵略の罪」に問われたが、その背景にあった欧米列強諸国のアジア・中国への帝国主義的植民支配(日本はそれに追いつこうとして中国進出)、米国ルーズベルト政権がWWII参戦を画してABCD包囲網で日本を追い詰めていったこと、更に、戦争末期に米軍が日本中に無差別大空襲したり、最終的には原爆投下まで行ったこと、それら連合国側の行為については、東京裁判では一切不問とされ、日本国の「侵略の罪」のみが問われ、軍幹部は死刑に処せられた。WWIIでは、敗けたら、従来の賠償金(罰金)ではなく、国ごと国民ごと、丸ごと「罪」に処断される方式になったのだ。
・・・そして、それに平行して、GHQ駐留軍は「War guilt program」と言われる思想運動の展開で、日本の「戦後左翼」を動かし、「一億総懺悔」(日本だけが国民まで「悪」であったとの思想)を普及させた。これが現代日本でもよく言われる「自虐的史観」と言われる史観、つまり、「日本では軍部が暴走したが、日本国民もそれを熱狂し、アジア各国に取り返しのつかない被害を与えた」との面ばかりを取り出して「反省」する史観である。
・・・これに対して、私は言い続けている。確かに日本軍は中国で千数百万人の人を死に追いやった。しかし、米国も無差別大空襲と原爆で計30万人もの日本人市民を大量虐殺した。しかも、原爆に至っては、もっぱら戦後のソ連に対する米国の覇権確保のため、米国の覇権エゴのためである。日本が罪深いならば、米国もソ連も連合各国も皆、罪深いのだ。
・・・戦争になると、敵国の市民は虐殺してもしょうがない、と割り切る。その人類の心こそが、命を創造された神への大きな罪なのだ。
◆ 以上だから、戦争で、どちらが「勝った」「敗けた」、どちらが「悪い」、どちらが「加害者・被害者」、という議論ばかりをするのは「人間の論理」でしかない。神から見ると「敵を殺そう」とする戦争は、どちらサイドも罪の塊であり、神はどちらにも悲しまれるのである。
・・・だから、私は、「反省のために、8月15日は敗戦記念日」と言おうという人の善意の趣旨は分かるが、もう戦争で「勝った、敗けた」は已めよう、戦争は人類の神への罪なのだから、敵・味方を超え、勝ち・敗けを超え、皆で手をとりあって、神に赦しと憐れみを祈ろう、と言い続けているのである。 Nat